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My Family and Other Animals (TV) 虫とけものと家族たち

イギリス映画 (2005)

イギリスの有名な博物学者で作家のジェラルド・ダレル〔Gerald Malcolm Durrell〕が1935~39年(10~14歳の時)に移り住んだコルフ島での体験を小説にした『虫とけものと家族たち〔My Family and Other Animals〕』(1956年)をBBCがTV用に映画化したもの。BBC製作なので、原作に忠実かと思っていたら、ある意味では忠実だが〔つまり、ほとんど原作にあるエピソードをそのまま映像化していて、台詞も原作の会話を活用している〕、もっと本質的な意味では忠実とは言えなかった。すなわち、この自伝的小説は、博物学者としてのダレルが、自らの子供時代に大きな影響を与えた “コルフ島での自然界との邂逅” を主題としているにも関わらず、昆虫採集や動物との愛情だけでは映画にならないと考え、極力、そういった場面は避け、それ以外に4年間にあった事件を中心にした脚本になっている。それでも、アメリカ映画の『We Bought a Zoo(幸せへのキセキ)』〔閉鎖されていた動物園の再建をした家族の物語〕のように、過度なアクションはなく、ドキュメンタリーのように淡々と話が進む点では、原作らしさを留めている。

改めてこの映画を観、原作も読み返してみて驚いたのは、映画や原作の中では、家族のことなど考えない自己本位の長男ラリーや、銃にしか興味を持っていない次男のレスリーが、結果的に、ジェラルド〔映画の中では愛称のジェリー〕にいい意味での影響を与えてくれたこと。この長男のラリー〔Lawrence Durrell〕は、1935年1月に結婚し、一家を説得してエルフ島に移住させた。そこで、彼は最初の小説を出版する。ラリーが、家族と一緒に暮らしたり、どうでもいい客を招いてより大きな家に引っ越させたりするのは、ジェラルドの小説の中での作りごと。ラリーことローレンス・ダレルは小説家としてノーベル文学賞にノミネートされた程の才能があり、もらった大英帝国勲章のランクも、ランク4(OBE)のジェラルドに対し、ランク3(CBE)とワンランク高い。次男のレスリー〔Leslie Durrell〕は長男と三男に比べて悲しい人生を送った。父からの遺産を 他の子供たちは活かしたが、レスリーは全財産を漁船に使い、その漁船は処女航海の前に沈没する。その後も事業が上手くいかず、結局ロンドンの高級ホテルのコンシェルジュ〔客の要望に臨機応変に対応する係〕として働く。1983年に65歳で死んだ時には、兄も弟も葬儀に来なかった。

映画は、全部で18章まである原作の第一部の6つの章をほぼ順番に映像化し、その後の第二部の6つの章は後半を順不同で使い、第三部の6つの章は全く無視したり、1つの話題だけ順不同で取り上げるという形で、冷遇している。それは、第一部が、一家がコルフに来てから定着するまでを書いた章なので、そのまま脚本にできるのに対し、後半に行くほど、ドキュメンタリー風の、脈絡を欠いたトピックスの羅列になるため、映像化しにくいという側面があったからであろう。なお、下記のあらすじの作成にあたっては、映画原作との対比を重視することにしたので、以下の3つの決まりに従って執筆する。
【緑字】は該当する 原作の説明文の紹介。
【「緑字」】原作の台詞を紹介〔日本語の訳本は無視した〕
 「緑字」】映画の台詞が原作異なる場合の、原作の台詞を紹介。
青字は、原作の台詞をそのまま映画の台詞に使った部分。

主人公のジェリー(ジェラルド)を演じるのは、ユージン・サイモン(Eugene Simon)。1992年6月11日生まれ。2005年12月27日の放映なので、もし、その年の夏に撮影したとしたら、撮影時13歳。2003年からTVドラマに出演し、端役はあるものの、本格的な映画出演はこれが初めて。翌年、脇役で出演した『Alpha Male』が少年期最後の出演。2013年以後、俳優として活躍している。

あらすじ

1935年8月のロンドン。映画で真っ先に映るのは、水を入れた洗面器の上に顔を伏せ、タイルで頭を覆っていたジェラルド〔愛称ジェリー〕が、タオルを取ろうと頭を上げるシーン(1枚目の写真)。原作では【その日の午後、僕の家族は好感を抱かせる状態にあるとは言えなかったが、それは天候が “かかりやすくありきたりの様々な病気” をもたらしたからだ】【僕は、咽喉炎がセメントのように頭に入り込み、口を開けたままゼーゼーと音を立てて息をさせられた】と書かれている。映画に戻り、長男のラリーは、「僕たち、なぜこんな忌まわしい天候に我慢してるんです?  ジェリーは話せない。レスリーは聞こえない〔耳に脱試験を詰めている〕マーゴは真っ赤なポリッジ〔オートミールの粥〕みたいな顔してる。母さんは、アイルランドの洗濯女〔アイルランド民謡〕みたいだ」と言い、ジェリーと、耳が聞こえないレスリー以外から反論が出る。ラリーはさらに、「8月だ! 太陽が必要だ! ギリシャのコルフ島〔ケルキラ島、ギリシャとアルバニアの国境のすぐ西にある淡路島より少しだけ小さい島〕に住んでる友達がいる」「今朝、ジョージから手紙が届いた」】素敵だって言ってる。荷造りして出かけようじゃないか」と言い出す。母は 「そんなこと出来ない。ここに家があるのよ」「このままじゃ行けないわ。この家について何かと手配しないと」】と反対する。「売ればいい」「手配? 一体何を? 売ろうよ」】【母:「そんなことできないわ」】【ラリー:「なぜ?」】【母:「だって、買ったばかりでしょ」】【ラリー:「なら、汚れてないうちに売れるじゃない」】。母:「バカ言わないで、ローレンス〔愛称ラリー〕」。反対はあったが、結局、ロンドンの家も家具も売り払い、一家5人と犬1匹〔ロジャー〕でコルフ島に向かうことに。
  
  
  

原作では、「イギリス→(船)→フランス→スイス→イタリア(ブリンディジ)→(船)→コルフ島」というルートで、一家は島に向かうが、細かなことは何も書かれていない〔ブリンディジから島の北端までの直線距離は僅か175キロ(福岡→対馬が120キロ)〕映画もそれに従い、太陽の光が降り注ぐコルフ島近くの地中海を、小さな帆船の先端に立って眺めるジェリー(1・2枚目の写真)と、フォアマストの後ろに集まって座っている残り4人の姿をバックに、映画の題名が表示される(3枚目の写真、船の行く手がコルフ島で、その背後に左の山々がアルバニア、右の山々がギリシャ)。
  
  
  

原作の、第一章「思いも寄らない島」の冒頭は、【僕たちは税関での喧騒と混乱から抜け出し、波止場の明るい日差しの中に入って行った】という文章から始まる。しかし、映画では、その前に税関での検査が順番に映される。最初はジェリー。税関吏の前の台の真ん中に彼が置いたのは、幼虫を入れた小さなガラスビン(1枚目の写真、矢印)。「これ何だね?」と訊かれ、「Grubs〔カブトムシの幼虫〕。もうすぐカブトムシに変わります」と答える。その時、ジェリーの足元で愛犬のロジャーがワンと吠える。ジェリーは 「これロジャー。犬を飼うのは大事です」と言う。次が、ラリー。台の上で開いた革鞄の中身はすべて本。「私は作家だ。これらはとてもいい。あらゆるブルジョワのクズどもに挑戦してる」。 次が、レスリー。革鞄の中身の一番上に、拳銃が2丁置いてある(2枚目の写真)。なぜか、税関吏は、「よろしい」と笑顔になる。原作では、第六章「甘美な春」【ある日、彼は二連式散弾銃を誇らしげに携えてヴィラに戻ってきた】と書かれていて、それまでレスリーは如何なる種類の銃も所持していない。そして、最後が母。中身はベッド用のシーツと枕カバーだが、税関吏は 「商品。税金」と言って、革鞄を脇に寄せる(3枚目の写真、矢印)。母が 「それは私たちのベッドリネンよ! このおバカさん」と文句を言うと、マーゴが 「腹立たしい人は放っておきましょ」と連れ去る 。
  
  
  

原作では、まず、ロジャーについて、【ロジャーは、犬小屋の中で鬱積したフラストレーションを解き放ち、まっすぐ前を見て立っていた】と書かれ、次いで、【ラリーは見事なほどおんぼろの二輪の辻馬車2台を選び、一方に革鞄を載せ、もう一方に座った】と書かれている。映画では、1台の馬車に人と革鞄の両方が乗っているが(1枚目の写真)、二輪ではなく四輪の辻馬車が使われている。ロジャーは、荷物の一番上に乗って、辺りを睥睨している。その悪影響はすぐに現れる。ここで、再び原作に戻り、【僕たちは、4匹のうす汚い雑種犬が日光浴をしている路地を通り過ぎた。ロジャーは硬直して睨みつけると、低く長く吠え声を浴びせかけた】と書かれている。映画では、ロジャーが1匹に対して吠え始め、それが犬の大軍を馬車の周りに集める。原作では【ほぼ20匹】とあるが、それほど多くはない。こうした犬に対抗するため、ラリーが馭者から鞭を奪って、それで犬と対抗しつつ(2枚目の写真、矢印)、ホテルに逃げ込むところは同じ。そして、いよいよホテルでの昼食の場面。まず、原作の会話から。【レスリー:「僕が紙を頼んだ時、支配人はあまり親切じゃなかった」】【母:「紙? 何のために紙が欲しかったの?」】【レスリー:「トイレだよ… 置いてなかった」】【マーゴ:「よく見なかったのね。便器の横に置いてある小さな箱に一杯入ってるじゃない」】【母:「まあ、マーゴ!」】【マーゴ:「どうしたの? 小さな箱、見なかったの?」】【レスリー:「この町のちょっと変わった配管システムのせいで、あの小さな箱は… そうだな… 自然に呼ばれた時の… いわば、残骸をだな… 入れるために置いてあるんだ」】【マーゴの顔は狼狽と嫌悪が入り混じって真っ赤になった】【マーゴ:「つまり… それって… 何てこと! 私、何か忌まわしい病気にかかったかも」】。そして、【彼女は嘆き悲しみ、突然泣き出し、食堂から逃げ出した】。次に映画。レスリー:「支配人は、トイレットペーパーをくれなかった」。マーゴ:「ちゃんと見てないのね。器の横に置いてある小さな箱に一杯入ってるじゃない」。母:「まあ、マーゴ!」。ラリー:「箱は、使用済みの紙を入れるところだ」。マーゴ:「え、まさか、私、使っ…」。母:「ええ。ちょっと不衛生ね。あとで、受付にある小さな本で腸チフスについて調べないと」。マーゴは、泣き出すと、立ち上がって食堂から逃げて行く(3枚目の写真)。原作の方が、よくできている。
  
  
  

翌朝、一家は、ホテルのガイドの案内で、滞在できそうな家を案内してもらうが、検分から出て来た母は、ガイドに向かって、「悪いけど、10軒の家を見せてもらったのに、どの家にもバスルームがないわ」と言う。それを聞いたジェリーは 「なんだ、またか」と言い(1枚目の写真)、老齢のガイドは 「バスルーム? なぜバスルームが要るんです?」と呆れる。「海があるでしょうが」【「海じゃダメなんですか?」】。母は、ガイドに頼むのをやめ、「ここは、文明発祥の地よ。バスルームくらいあるはず。私たちで探しましょ」と言いながら町の広場に入って行く(原作では翌朝。母の台詞もない)。そこには、多くの四輪の辻馬車(タクシー)が客待ちしている。母が 「タクシー!」と呼ぶと、大勢の男たちが寄ってきて、奪い合いとなる(2枚目の写真、矢印は母)。原作には、その場面がこう書かれている。【タクシーの運転手たちは、僕たちの無邪気な表情を見て、先を争って馬車から出て来ると、ハゲタカのように群がり、互いにより大声で叫び出した。彼らの声はますます大きくなり、目を輝かせ、互いの腕を握りしめ、歯を食いしばり、そして僕たちを引き裂くかのように抱きしめた】。そこに、1台の古いアメリカ車がやってくると、運転席に乗っていた男が、ギリシャ語で怒鳴る。すると、男たちは母から手を放す。すると、男は車を降り、如何にも威厳たっぷりに歩いて来る(3枚目の写真)。この部分の原作での記述は、【振り返ると、縁石に沿って古いダッジが停まっていて、ハンドルを握っているのは、背が低く、大きな手をした樽のような男で、しゃれた感じに傾けたひさしのついた帽子をかぶっていても、顔はごつくてしかめっ面をしていた。彼は車のドアを開けると、歩道に飛び出し、よたよたと僕たちのところまで歩いてきた。そして立ち止ると、一層獰猛なしかめっ面になり、沈黙した馬車の馭者の集団を見渡した】。男は英語で、「あんた方の言葉を話せる人が必要かね?」と訊く。そして、返事をもらう前に、馬車タクシーの馭者全員を追い払う。そして、一家に向かって、「で、タクシー? どこに行きたいんだね?」と笑顔で尋ねる。原作では、この後にちゃんと会話がある。【ラリー:「ヴィラを探しに連れて行ってくれるかい?」】【母:「私たち、バスルームのあるヴィラを探してるの。ご存じ?】【男:「バスルームのあるヴィラなら一つ知ってます」】
  
  
  

車の中は座席が3列になっていて、助手席にジェリーがロジャーを抱いて座り、2列目にマーゴと母、3列目にラリーとレスリーが座っている。男の名はスピロ。そして、車のシーンで最初の台詞は、「知ってる? イギリス人は、いつだってバスルームを欲しがるんだ。私の家にもバスルームがある。私は、8年間シカゴにいた。」というもの(1・2枚目の写真)。そのあとも、スピロは話し続ける。「それから、自分にこう言った。『スピロ、もう十分稼いだじゃないか』。それで、島に戻ったんだ。この車は、一緒に持ち帰った。島で一番いい車。嘘なんか言ってない」。スピロは、急カーブでも話を止めないので、母は怖がって、「道路をちゃんと見て」と言うが、スピロは構わず話し続ける。「すべてのイギリス人観光客は、島にやって来ると私に助けを求める。そう、私がギリシャ人じゃなかったら、イギリス人になりたいね」。こう言った時のカーブは、崖っぷちでハンドルを大きく取られた。そして、遂に、バスルームのあるヴィラの前で車が停まる(3枚目の写真)。映画では、言葉で表現されていないが、原作によれば、第二章のタイトルにもなっている 「ストロベリーピンク〔濃いピンク〕のヴィラ」で、3枚目の写真の建物もそれに近い色になっている。ヴィラを一目見たジェリーは、「これにしよう」と言う。
  
  
  

スピロは、タクシーの運転手としてだけではなく、荷物の運搬や、その搬入まで一手に引き受ける(1枚目の写真)。ここで、作者〔というか、大人になったジェリー〕のナレーションが入る。「ひとたびスピロが責任を負うと、彼は梂(イガ)のように私たちにくっつき、家族の一員になった。茶色くて醜い偉大な天使のように、私たちを優しく見守ってくれた」。この部分、原作では、【予期せず僕たちの生活に入り込んできたスピロは、今や僕たちの生活を完全にコントロールするようになった。彼は、自分に任せた方がいいと説明した。誰もが彼を知っているから、僕たちが騙されることなどあり得ないと】と書かれている。スピロは、次に税関に行く。「この人たちの物はどこだ?」(2枚目の写真)。「商品だ」。「引き取りに来たんだ。ほら、取って来いよ」。そして、税関吏が革鞄を開けようとすると、「おい、なんで開けるんだ、この野郎」。「義務だ」。「義務だと? まともな外国人密輸業者のように扱うのがか? それ義務だと?」。税関吏が仕方なく革鞄を出して来ると、スピロはギリシャ語で何か文句を言ってから、革鞄を持って母やジェリーと一緒に立ち去る。原作では、もっと激しい。【スピロは怒った熊のように税関に突入した】から始まる。最初は、映画のように普通に対応していたが、しかし、税関吏は義務に拘り、映画のように簡単に渡してくれない。そこで、スピロは 【「わしはあんたを知ってとるぞ、クリスタキ。だから俺に義務について話すのは止めろ。あんたがダイナマイトを使った漁で1万2000ドラクマの罰金を科されたのを覚えとる。わしの義務に犯罪者が口を挟むことは許さん」】と言って革鞄を勝ち取る。3番目は、ヴィラの外での食事にスピロが加わっているシーン。ラリーが母に 「僕の寝室まで走って行って、タバコ取ってきてくれる?」と頼むと、母は当然 「自分で取って来なさい」と言う。これを不満に思ったラリーが母の批判を始めると、スピロは 「あんたは言葉に気を付けるべきだ。お母さんを傷つけたくないならな」とラリーをたしなめる。「どうしてだ、スピロ? 彼女は、僕らのために何一つしてくれたことがないのに… なんで配慮しなくちゃならん?」。「冗談はやめて… 冗談もほどほどに」。ここで、レスリーが兄を援護する。「彼は正しいぞ、スピロ。彼女は母親として本当にダメなんだ」。「そんなこと言わない。そんなこと言わない【原作では、スピロは英語を間違えて「Donts says that, donts says that」と言う】。正直言って、もし私に “あんたの お母さんみたいな母” がいたら、私は死ぬまで毎朝 彼女の足にキスするよ」。
  
  
  

場面の転換は、ナレーションから始まる。「こうして私たちはヴィラに落ち着き、それぞれが腰を落ち着け、それぞれのやり方で 自分を環境に順応させて行った」。ジェリーは蟻の集団を観察し、レスリーは石垣の上に銃の標的となる缶を並べ、ラリーは机の上にインクのビンを置き、母は料理を始める。ここで、ジェリーに戻り、彼はイモムシを観察し、レスリーは缶を銃で撃ち、その衝撃でラリーの本棚が崩れ、マーゴの持ったコップの中身がこぼれる。そして、ヴィラの裏にはロバがやって来て、ラリーがキッチンにいる母のところに行くと、「邪魔なら移動させたら」と言われる。そこに、ジェリーが飛び込んできて、「カニグモ〔網を張らない徘徊性のクモ〕見つけたよ! 違う色の葉に移して、10分待つと色が変わるんだ!」と興奮して話す(1枚目の写真)。原作には 【僕は、小さなカニグモが カメレオンと同じように上手に色を変えられることを見つけた。ワインレッド色のバラに、珊瑚のビーズのようにとまっていたクモを、涼しげな白いバラの奥に置いてみる。もし、クモがそのままそこにいれば、貧血でも起こしたように、色が徐々に薄れていき、2日ほどで、クモが真珠のように白い花びらの間にうずくまっているのが観られる】と書かれていて、10分では無理にように思える。母とラリーは全く興味を示さず、レスリーのくり返す発砲にラリーが文句を言い、母が擁護する原作では、レスリーはまだ銃を持っていない〕。そのあと、またジェリーが駆け込んで来て、今度は、「僕がケムシだと思ってた黒いケムシ知ってる? ケムシじゃないんだ。孵化したばかりのテントウムシなんだけど、ケムシそっくりなんだ」と興奮して話す。短時間で新しい発見をして戻って来るのも変だなと誰でも思うが、原作では 【これらすべての発見は、僕をとてつもない驚きと喜びでいっぱいにさせたので、これを独り占めしちゃいけないと思い、家に突然飛び込み、バラにいた奇妙な棘のある黒いケムシは ケムシなんかじゃなくて、テントウムシの幼虫なんだとか…(省略)… という話をして家族を驚かせた】と、これがジェリーの日常となったことを強調している。映画では、そのあとジェリーは、タモ網を持ち、ロジャーを連れて探検に出かける。そこで、採取したカマキリをガラスビンに入れたり(2枚目の写真、矢印)、石の下に住んでいる昆虫をじっと見つめたり(3枚目の写真)と、この本らしいシーンが唯一描写される。
  
  
  

原作では、ここから第三章「ローズ・ビートル・マン」に入る。ローズ・ビートル(Rose Beetle)とは、緑がかった金色の体と金属光沢を持った イギリス原産のコガネムシ科の甲虫。ジェリーが昆虫探しをしていると、羊飼いの葦笛の音が聞こえ、振り向くと、不思議な物を持った老人がやって来るのが見える。老人は、親しげにジェリーに向かって手を振り、おいでと手招きする。ジェリーが近くまで寄って行くと、老人は20本ほどの木綿の糸を握っていて、その糸の先には1匹ずつローズ・ビートルが結んであり、ローズ・ビートルは元気に飛び回っている(1枚目の写真)。ジェリーは、これまで見たことも聞いたこともない不思議な光景に見とれる。老人のお腹と背中には、鳥を入れた籠が何個もぶら下がっている。老人が、肩に掛けていた麻袋を地面に置くと、中には数匹のカメが入っていて、老人はその1匹を手に取ると、ジェリーに渡す。ジェリーは、初めて手にするカメに魅せられる(2枚目の写真)。原作での “ローズ・ビートル・マン” の記述は、映画でよく再現されている。ただし、完全に違うのはカメに関する部分。【僕は、ローズ・ビートル・マンに、小さなカメが幾らなのか尋ねた。彼は、両手を上げ、全部の指を拡げた〔12という意味〕。しかし、僕が農民の取引を見ていて、何も気づかなかったワケじゃない。僕は、断固として首を横に振ると、男の真似をして2本の指を立てた〔12では高いので2〕。彼は、その価格にゾッとして目を閉じ、指を9本上げた。僕は、3本上げ、彼は首を横に振って、6本上げた。今度は、僕が首を横に振って5本上げた】。その先のやり取りは長いので省略するが、結局、指5本分の価格で交渉が成立する。映画でプレゼントだったのとは大違い。カメを持って帰ったジェリーに対し、レスリーは 「いいけど、これでおしまいだ。これ以上、ペットはダメ」と言う。それでもOKが出たので、ジェリーは、カメにイチゴを食べさせる(3枚目の写真、矢印)。因みに、カメの名前はアキレス〔ホメロスの『イリアス』に出て来る英雄〕原作では、ペットの制限に関する発言はない。そして、映画を裏付けるように 【アキレスが一番好きなフルーツは、野イチゴだった】と書かれている。
  
  
  

ジェリーが、屋外のテーブルの上でアキレスと遊んでいると、暑いギリシャで 1人だけ長袖で厚い毛糸のジャンパーを着ている息子を見た母が、「ジャンパー 脱いでいいのよ」と言ったので、彼は上半身裸になるが、ノースリーブのシャツだけを着たラリーから、「下手に料理したチキンみたいだ」と言われる〔露出していた顔と、胸の上部の逆三角形の部分だけが日焼けしている〕。母は、かつてジェリーが紙に書いたスペル・ミスだらけの5つの単語を見て、「何らかの教育が必要ね」と言う。それに対し、マーゴは 「ダンスを習わないと」と言い、ラリーは “文学の基礎”、レスリーは “射撃と帆走” を主張し、論争になる。それを聞いていたジェリーは、「どうしていつも僕のことを、僕がここにいないかのように話すの?」と不満をぶつける(1枚目の写真)。しかし、その言葉も無視され、ラリーは、「友だちのジョージは、まだこの島にいる。彼が教えるってのはどうかな?」と提案し、母は 「いいアイディアね」と賛成する。これから先は、原作第四章「たくさんの勉強」の冒頭。【母は、僕が自由気ままに振る舞っており、それ故、何らかの教育を受ける必要があると判断した。しかし、辺ぴなギリシャの島のどこで そんなものが見つかるのか? いつものように、問題が起きると、(僕以外の)家族全員がその解決に熱心に取り組んだ。各人が 僕にとって何がベストかについての自論があって熱を込めて主張したため、僕の将来についての議論は大騒ぎになった】。レスリーが “射撃と帆走”、マーゴが “ダンス”、ラリーが “文学” を主張するのは全く同じだが、議論はずっと長引く。最後に母が、【「争ってるだけでは問題は解決しないわ。私たちが求めているのは、ジェリーに教えることができ、彼のために自信を与えてくれる人なの」】と言い、それに対し、ラリーが 【「彼の興味はただ一つ、それは、動物の生態に没頭していたいという抑えきれない衝動さ」】と、自分の下らない作家志望をさておいて弟を侮辱すると、母は諦めを込めて、【「彼は、2歳の頃からそうだったし、そこから抜け出す兆しはないわ」】と断言する。それを聞いたラリーは、【「もし、彼に役に立たない情報を詰め込むことに賛成なら、ジョージに教えさせたらどうかな?」】と提案し、母は 【「いいアイディアね〔That's a brain-wave〕」】と言う〔途中、かなり省略〕映画の次のシーンでは、ジョージが、まず数学から教えようと考え、「壁を築くのに、もし3人なら1週間かかるとしたら、6人ならどのくらいで出来る?」と訊く。しかし、ジェリーはテーブルの上を這っているウジ虫を、マッチ箱に入れる方が大事なので、何も言わない。そこで、ジョージは、題材を虫に変え、「8枚の葉っぱを食べるのに、もし2匹のナメクジなら1週間かかるとしたら、4匹のナメクジならどのくらいかかる?映画では毛虫〕と、言い換えて問題を出す。すると、ジェリーは 「どんな種類のナメクジ?」と訊く。論点を外した質問に対し、ジョージは 「どんな種類でも!」と怒る。原作では、その後に行われた地理の授業は、地図とそこに住む動物と結びつけたことで成功する。歴史の授業は、ハンニバルのアルプス越えになると、俄然ジェリーは興味を持ち、映画でも原作でも、同行した象の名前を訊かれると、すべての象の名前をすらすらと答える(3枚目の写真)。
  
  
  

次の場面に登場するヤニという老いた羊飼い(1枚目の写真)。ジェリーが、ヤニが反対側に置いていたガラスビンを指すと〔ヤニには英語が通じない〕、ヤニはそれを取り上げ、淡い黄色の液体に漬けた小さなサソリを見せる(2枚目の写真、矢印はビン)。そして、ギリシャ語で 「」と言う〔ジェリーは、それまでに、少しはギリシャ語が分かるようになっていた〕。そして、ヤニは、指で “サソリが指を刺す” ところをやって見せ、その後に、“ビンを指し、その中の液体を刺された指に塗る” 動作をし、最後に “そうすれば、無事に済む” と両手を拡げる。それを見て、ジェリーが頷く。そのあと、ヤニは、ギリシャ語と手ぶりを交えて話し始める。「わしの知っていた若者、わしと同じ羊飼い、木の下で眠っておった。1匹のサソリが彼の耳の中に入り込んだ」。ヤニは指を耳の中に入れる(3枚目の写真、矢印はサソリ)。「彼は目を覚まし、サソリが彼を刺した。彼は助けを求めて走った、恐怖で狂ったように。わしらは彼を見つけた時、彼の頭は大きく腫れ上がっておった。まるで頭が妊娠したかのように」。手で膨らんだ様子を示す。「死んでしもうた」。原作では、ヤニの登場は第三章で、ローズ・ビートル・マンよりも先。そこでは、ヤニのことを、【背が高く、猫背で、鷲のような巨大な鉤鼻と驚くような口ひげを生やした老いた羊飼い】と紹介している。そして、ヤニがサソリについて話すのは、第五章「貴重なクモのコレクション」になってから。そこでは、ビンの中のサソリについて、映画では観ていても分からないことの説明から始まる。【油が溢れるほど入った瓶は、淡い色の琥珀でできたように見え、その中央には分厚い油で挟まれたチョコレート色の小さなサソリが浮かんでいて、その尾は背中の上で三日月刀のように曲がっていた。サソリはネトネトした油の墓で窒息して完全に死んでいた】。そして、その使い方について、ヤニは 【「まずサソリを捕まえる。生きたまま、落ちてくる羽のようにそっとじゃ。それから、生きたまま、いいかな、生きたまま油のビンに入れる。煮て、その中で死なせ、甘い油に毒を吸い取らせる。あんたさんが、サソリの仲間に刺されたら、その油をそこに塗る。そうすりゃ、刺されても、とげに刺されたときと同じくらいの不快感で済むんじゃ」】と教える。もちろん、サソリに刺された若い羊飼いの話も、もっと詳しく書いてある。
  
  
  

映画では、「ジョージは私の授業をできるだけ楽しいものにしようと懸命に試みた」というナレーションの後、海岸の岩場で、ネルソン提督の率いるイギリス海軍が、ナポレオン海軍を撃破した1805年のトラファルガーの海戦について話すが、タモ網を持ったジェリーは話など聞かず、海の中の生物探しに熱中している。そして、ナマコ映画に出て来るのはsea cucumber(ナマコ)なのに、ジェリーはなぜかsea slug(ウミウシ)と言っている。両者は全く違い、ウムウシが吹き出す紫色の液体には毒がある〕を見つけると、手で掴み、「これ本で見たよ」と言う。それにもかかわらず、ジョージがネルソンの話を続けるようとすると、ジェリーはナマコの口をジョージの顔に向け、水管から水を吹きかける〔ナマコがお尻から噴射する白い糸のようなキュビエ器官(内臓の一部)とは違う〕。ジョージは、仕返しに、別のナマコを拾いジェリーに向けるが、逆に持ったので、もう一度ナマコの水を顔にかぶる(1枚目の写真、矢印は2人のナマコ)。原作第四章の最後の方で、ジョージが【戸外授業〔outdoor lessons〕を始めたと書かれ、ナマコについても書かれているが、映画のように、ジェリーがジョージの顔に水をかけるようなことはせず、【ナマコの水鉄砲の習性が、僕たちにゲームを考案させた。僕らはそれぞれ1匹ずつナマコを持ち、水鉄砲を海に向けて飛ばし、水がどのように、どこまで飛ぶかを観察した】と書かれている。そのあと、ジョージはトラファルガーの海戦について話し、ジェリーはもう少し真面目に話を聞いている。ここで、映画に戻り、ナマコの水を顔にかぶったジョージが、眼鏡を元に戻すと、海岸に昆虫用のタモ網を持った一人の紳士を見つけ、「テオ!」と声をかける。そして、ジェリーには、「彼は、君と同じで、並外れた自然愛好家なんだ。あらゆることに精通している」と説明し、「ジェラルド・ダレル。セオドア・ステファニデス博士」と両方一辺に紹介する(2枚目の写真)原作では、博士との出会いは第五章。会う場所はジョージの家〕。博士は、「会えて嬉しいよ」と言い、ジェリーは、「僕も」と言って、うっかりナマコを持った手を差し出したので、相手をびっくりさせる。原作では、部屋の中なので、最初にジェリーが、彼としては丁寧に 【「はじめまして」】と言い、博士も、相手が子供なのに、丁寧に 【「会えて嬉しいよ」】と応じる〔この部分の、某出版社の訳は 「お目にかかれて大変うれしいです」。老齢の博士が12歳の少年に対して言う言葉としては、あまりにも不自然〕。2人の邂逅はこの短いシーンだけで、場面はすぐにヴィラに変わる。今では、ラリーがギターで、イングランド民謡の『グリーンスリーブス』を、これ以上下手にはできないほど弾きながら歌っている〔いつも生意気なことを言うくせに、才能はない〕。歌い終わると、母は、「私、ここ大好き。コルフ島に埋葬されたいわ」と言う。この言葉は、原作第十六章の最後で、2隻のボートで島の中の砂浜に出かけた時に、母が 【「ここ素敵な場所ね。ここに埋葬されたらいいのに」】という言葉とよく似ている。話が埋葬の後の弔問客にまで進んでいると、そこにスピロが入って来て、「マーゴお嬢さんに、トルコ人のボーイフレンドがいます」と、心配を打ち明ける。ラリーが、「何が問題なんだい?」と言うと、「マーゴお嬢さんが、クソッタレのトルコ野郎と一緒なんですぞ。一緒に泳いでる」と危機感をあらわにする〔ギリシャ人とトルコ人は犬猿の仲。そんなトルコ人が、コルフ島になぜいるのだろうか?〕。それを聞いたジェリーが、「マーゴ、妊娠してるの?」と訊くと、マーゴを片思いの目でチラチラ見るシーンが1回だけあったジョージが、手に持っていた何かを落としてしまい、ガチャンと音がする。それに対し、母は 「彼を、お茶に招待しましょう」と提案する。
  
  
  

その直後、スピロは、「ジェラルド、テオ博士からのプレゼントだよ」と言って、小さな木箱を渡す。テオのことを知らない母は、「それ、誰なの?」とジェリーに訊き、ジェリーは 「ジョージの友だち。何でも知ってる」と答える。さっそく箱を開けてみると、中にはポケット顕微鏡が入っていた(1枚目の写真、矢印)。原作では、第五章の最後に、博士の手紙が載っている。【先日の君との会話の後、君の地域博物誌の調査には何か拡大鏡があれば役立つんじゃないかと思った。そこで、役に立つと期待して、このポケット顕微鏡を提供することにした。もちろん、倍率はそんなに高くないが、君の野外採集には十分だと思う。追伸: 木曜日に何もすることがなければ、一緒にお茶でもどうかな? そしたら、君に、私の顕微鏡スライド標本を幾つか見せてあげる】〔過度に丁寧だと批判した某出版社の訳は、「先日お目にかかった後で、あなたがこの地方の博物学を研究なさるのに、拡大鏡の類を一つお持ちになれば何かと便利なのではないかと考えました。そこで、どうかお使い下さるようにと思って、携帯顕微鏡をお送りいたします。勿論高倍率を得ることは不可能ですが、戸外での使用にはこの程度で十分でありましょう。追伸: 木曜日にお暇がございましたら、お茶を御一緒したいと存じますが、いかがでしょうか? 顕微鏡標本もいくつかお見せできると思います」/もう、この種の批判はしないが、あまりにひどすぎる。相手が、ただの12歳の子でなくて、学会で名高い学者に対してなら、こんな風に書くかもしれないが〕映画の次のシーンは博士の家。壁には、多くの標本額が飾られ、中には各種の昆虫が整然と配置されている。博士は、「これは、先日、Govinoの近くで採取したcyclops viridisというクモだよ〔https://animaldiversity.org/ によれば、甲殻類なのでクモではない〕と言って、ジェリーに見せる(2枚目の写真)。原作では第六章の初めの方に同じシーンがある。【「これは、先日、Govinoの近くで採取したcyclops viridisというシクロプス〔ミジンコ〕」だよ】〔ミジンコは微小な甲殻類なので、こちらは正しい。映画では、なぜ “クモ” などと間違えたのだろう?〕。そのあとで、ジェリーが買った〔捕まえたなら分かるが、昆虫好きがなぜ買ったのだろう? 買う場面もないし…〕昆虫を入れたマッチ箱を4個、顕微鏡のそばに置き(3枚目の写真、矢印)、それが何かを尋ねる場面があるが、原作にはない。



この辺りから、映画は次第に原作と離れて行く。まず、原作には全くないが、母は庭でジェリーと話している。「それで、(あなたが口にした)妊娠(という言葉)なんだけど、これまでずっと話し合おうと思っていたの。なぜならそれは重要で、とても美しく… 理解し難く… ショッキングなことでもあるから」。「どこが? 何もかも知ってるよ。動物が交尾したり繁殖したりするの、いつも見てるから」。「人間と動物とは違うの。多分、考え過ぎかもしれないけど、人生ってものは、あなたのもそうだけど、時に苦しいものだということに気づくでしょう。特に恋愛に関しては」(1枚目の写真)「可哀想なジョージを見てごらん。彼はマーゴに失望して、イングランドに戻ってしまったのよ」。原作では、第五章でジェリーを博士に引き合わせた後、ジョージは登場しなくなるが、なぜかが全く分からない。映画は、その点親切。そのあと、トルコ人を交えたお茶の会が、屋外で開かれる。トルコ人がラリーに、「あなたは書くのですね?」と尋ねると、ラリーは、「ああ、僕は…」と何か言いかけるが、トルコ人はそれを遮るように、「私はいつも、私には一流の文章が書けるに違いないと思っています」と自慢する。マーゴは、「彼って泳ぎがとても上手で、すごく遠くまで泳げるの」と嬉しそうに言い(2枚目の写真)、それに対し、ラリーが 「実地に見せたかったのさ」と矮小化するように言うと、トルコ人は 「私は一流の泳ぎ手です。恐れを知りません。馬に乗る時も、一流の乗り手なので、恐れを感じません。台風でも恐れることなく帆船を出せます。私には、恐がるものなどないのです」と嘘かホントか自慢げに言う。ここまでは原作通り。そのあとで、マーゴが 「そんなに香水をつけないで欲しいわ」とだけ言う。映画では、この先、トルコ人は出て来なくなるが、なぜだか全く分からない。原作には、ずばり書いてある。その日の夜、トルコ人とマーゴと母と3人で映画を観に行く。午前1時半に疲れきって帰宅した母は 【「最悪の夜だったわね」】と言う。ラリーにその理由を訊かれると、マーゴが 【「彼、最初から香水の匂いプンプンさせてて、私、すぐ嫌いになったの」】と言う。母は、①一番安い席で、スクリーンに近過ぎたから頭が痛くなった、②席が狭くて息ができないほどで、ノミがコルセットの中に入り込んだ、③休憩時間の時、不味いトルコ菓子を買ってきて食べさせられた、と文句を並べる。そして、もう一度 マーゴ。【「最悪だったのは、家に帰る時」】。そして、母が後を続ける。①車で帰るのかと思ったら馬車だった、②すごく臭く、③まだいるノミは痒く、④家まで遠いのでいつになっても着かなかった。かくして、トルコ人との付き合いは完全に拒否される。映画に戻り、ジェリーが走って来て、母に 「アキレスが井戸に落ちちゃった。死んでると思う」と、泣きながら言い、最後は母に抱き着く。原作第三章に、アキレスにイチゴを食べさせてからすぐ、【彼は使われてない井戸に落ち… 残念なことに、完全に死んでいた】という一文がある。映画では、家族全員が集まり、死骸を入れた箱を、スピロとテオ博士が持ち(3枚目の写真、矢印)、庭に掘った穴の中に納める。原作もほぼ同じだが、スピロはいないし、テオ博士はまだ登場していない。
  
  
  

葬儀が終わった頃、葦笛の音が聞こえ、ローズ・ビートル・マンがやって来るのが見える。ジェリーが走って行ったのを見た母も、近寄って行き、糸で結んだローズ・ビートルに驚く。そして、ジェリーに 「あなたが 人より生き物が好きな理由、分かるような気がするわ」と言った後で、「紐で結ばなくちゃいけないの?」と訊く(1枚目の写真)。「箱に入れとくよりいいよ」。「全部、買いましょ」。  2人だけになると、2人はローズ・ビートルを野に放してやる(2枚目の写真)〔1匹ずつ紐を外して、また箱に戻したのだろうか? そんな面倒なことをするより、1匹ずつ紐を外し、すぐに解放してやった方がいいと思うのだが〕。この場面は、原作でもカメの葬儀の後にある。従って第三章【母と僕は、感傷的な衝動に駆られて、ローズ・ビートルを一匹残らず買い占め、彼が帰った後、庭に放してやった】。次は、場面が変わり、海辺の海水と砂浜との境に置いたテーブルの周りの6脚のイスに一家5人と犬のロジャーが座っている。その席で、ラリーが 悪巧みの最初の一言を話す。「1人か2人を1週間ほど招待したよ」。母:「それはいいわね」。「知的で刺激的な知人がいるって楽しいよ」。「インテリ過ぎないといいんだけど」。「そうじゃなくて、魅力的だよ。僕みたいに」〔これで、招待客がロクデナシなど分かる〕。すると、沖合を通っていった小さな漁船のギリシャ人が、顔見知りになっていたジェリーに向かって、「小さな英国貴族」と呼びかけ、ジェリーが手を振る(3枚目の写真)。マーゴが、「どうして、私たちを貴族だって思うのかしら?」と訊くと、ラリーが 「だって、僕らがそう振る舞ってるから」と、これまたバカな答えをする〔彼が、家族の中で最低の人物〕原作では、この点に関して、第三章に、ジェリーが羊飼いのヤニに、【「お前さんは外国人… 小さな英国貴族じゃな?」】と訊かれた際、【その頃には、英国人はみな貴族だという奇妙な農民の考えに慣れていたので、僕もそうだよと認めた】と書かれている。映画では、ラリーの悪巧みが加速して行く。
  
  
  

先程のラリーの悪巧みの続き(1枚目の写真)。この節だけ映画原作の会話を対比して示すことにした。


この会話の後、一家は海辺に面した3階建ての黄色のヴィラ(2枚目の写真)に移る。スピロが指揮を取って多くの荷物を運び込んでいる(3枚目の写真)。

  
  
  

引っ越して、最初に出会ったのがルガレツィアという ①すごく老齢で、②不愛想で、③いつもお腹が痛くて、④何をするにも超スローな女性。ヴィラの専属なので引き受けざるを得ない。原作第七章「水仙のように黄色いヴィラ」では、ヴィラの庭師の妻という設定だが、扱いにくい人物であることは同じ。【彼女は痩せて陰気な人で、髪の毛はヘアピンとクシで城壁みたいに留めているのに、いつもバラバラに外れていた。彼女は、過敏なほど感じやすく、彼女の仕事に対するちょっとした批判―たとえ、それが如何に気配りした言い方であろうとも、恥ずかしげもなく茶色の目に悲しみの涙を溢れさせた。そうした、胸が張り裂けるような姿を見た母は、すぐに彼女を批判するのをやめてしまった】。ヴィラは、しばらく放置されていたため 備え付けの家具も傷んでいる(1枚目の写真、矢印)。一方、ジェリーの部屋は、集めたもので一杯になっていく(2枚目の写真)。次のシーンでは、なぜかテオ博士が、ジェリーと2人で洗濯物をロープに吊るしている〔なぜ、博士がそんな雑用を?〕。そして、作業をしながら、ジェリーに向かってオペラの話を始める。実は、この話題は、原作のラスト近くの第十六章「ユリの湖」で、このあと3度目に引っ越す小さな家の庭で、コマドリを見たテオ博士がジェリーの家族を前に話すもの。それなら、状況に納得がいくが、物干しとジェリー相手では不自然極まる。「コルフ島で観た最後のオペラの話はしたかな?」。「ううん」。「そうか。それは、素晴らしく上手なプリマドンナが『トスカ』を演じる旅回りの歌劇団だった。フィナーレで、君も知っとると思うが」(3枚目の写真)「彼女は城の胸壁〔最も高い所〕から身を投げて死ぬんだ。ところが、それが初日だったので、舞台係は彼女が着地するためのものを置くのを忘れてしまい、彼女は落下して激突し、恋人が彼女の死を悲しんで歌っている間中、大きなうめき声を上げ続けたんだ」。ジェリーは面白そうに聞いていたが、ふと下を見ると、2匹のカメが交尾できずに変な形になっている。ジェリーが 「助けて戻そうか?」と訊くと、博士は 「いや、それをしたら、やる気がなくなる」と助言すると、話を続ける。「当然のことながら、プリマドンナはとっても怒ったので、次の夜、舞台係は、着地点に大量のマットレスを積み重ねた。しかし、着地はとっても柔らかくて弾力があったので、彼女の死を悲しんで歌っている間中、問題の女性は胸壁の上まで数回跳ね上がったんだ」。ジェリーは、あまりに可笑しいので、「それって、あなたの作り話?」と訊く。「いいや。コルフ島では、何事も思ったようには進まないんだ」。
  
  
  

ラリーの “お客” が到着を始める。「彼の友だちは、ラリーが約束したような普通の魅力的な人々とは程遠く並外れて風変わりな連中であることが判明した。完全な新種を見ているようなものだった」とのナレーションが入り、ジェリーは窓の外で変な服装で踊っている2人を呆れて見ている(1枚目の写真)。このあと、食堂で、2分12秒にわたり、大勢の “お客” が実につまらない話を交わすシーンがある(2・3枚目の写真)。『虫とけものと家族たち』の主役は「虫とけもの」なのに、映画の後半はそれを無視して、どんどん原作から離れていく。もしくは、「虫とけもの」に無関係な部分だけを映像化する。原作には、先のナレーションを入れて、僅かに 【春から初夏にかけて、僕が亀の求愛行動を研究している間、ヴィラはラリーの友人たちが絶え間なく訪れていた。家や庭には、詩人、作家、芸術家、劇作家たちが議論したり、絵を描いたり、飲んだり、タイプしたり、作曲したりする姿が見られた。彼らは、ラリーが約束したような普通の魅力的な人々とは程遠く、インテリぶっているため相互理解ができないほど並外れて風変わりな連中であることが判明した】くらいしか書かれていないのに。
  
  
  

場面は変わり、映画だけのシーン。“お客” に飽きたジェリーと母は、庭の端の海を見下ろすテーブルに座っている。ジェリーがやっているのは、コウモリを仰向けにしてピンで板に張り付け、腹部を切り開いて、中からピンセットでいろいろな臓器を取り出している気持ちの悪い作業。それを見た母は、「あなた、野性動物に似てきたわね」と言い、それに対し、ジェリーは 「ありがとう」と答える(1枚目の写真、矢印)。次のシーンでは、ジェリーの部屋にやって来たルガレツィアがフクロウに怯えて逃げ出す(2枚目の写真、矢印)。最後は、重要なシーン。屋外のテーブルに座ったジェリーを除く家族4人。ジェリーは少し離れた所で地面をじっと見ている〔伏線〕。彼が探していたものは… そして、テーブルに座ったラリーはタバコを咥え、テーブルの上に置いてあったマッチ箱に安易に手を出す。マッチ箱は、ジェリーが捕獲した小さな昆虫を入れるのに使っていたものだ。ラリーがタバコに火を点けようと箱を1/4ほど開けると〔目線は他を向いている〕、中から小さなサソリが出て来る。それに真っ先に気付いたのはマーゴで、「ラリー、動かないで」と注意する。その声の真剣さに固まったラリーが目を下に向けると、手にサソリが乗っている。それを見て、悲鳴を上げて立ち上がると、サソリは手から離れて行くが、マッチ箱からは他にも6匹のサソリが出て来て(3枚目の写真)、母以外は大騒ぎで逃げ惑う。母が 「何してるの?」と訊くと、ラリーが 「あのガキだ。この家中のマッチ箱は死の罠だ!」と叫び、マーゴは 「お母さん、あいつらこっちに来る。早く、何とかして!」と悲鳴を上げる。そうやくサソリに気付いた母は、「そのサソリ、どうやってテーブルに乗ったの?」と訊く。大騒ぎを聞きつけた “ラリーが呼んだ邪魔なお客達” は何事かと見に来て、サソリを見てヴィラから逃げ出していなくなる。原作では、サソリのシーンは、第九章「塀の中の世界」にある。映画とほぼ同じだが、違うのは、その場に “客人” などいないこと映画では、“お客” のシーンを終わらせるきっかけに利用している〕
  
  
  

このことがあって、新しい家庭教師ピーターが雇われる。ピーターはジョージとは違い、威張り腐った感じの嫌な男。最初の言葉は、「教育とは、学習の積み重ねだ。近道などない。あるのは、反復、ルール学習、猛勉強だけだ」と言うと(1枚目の写真)、「数学の基礎から始める。1ページ目の1番の問題だ」。1番の問題は、「半径rの円を示し、rが1なら、πr²は? 2πrは?」というもの。ピーターはジェリーができるまで本を見ているが、その内側には不真面目な小説を隠し、それを読んでいる。一方のジェリーは 問題など解かず、ノートの上に紙を置いて両生類の絵を描いている。そこに、マーゴが2人分のジュースを持って来ると、一目惚れしたピーターは、ジェリーのことなど、どうでもよくなり、庭に出て行ったマーゴを窓からじっと見ている。それを見たジェリーは、「彼女、庭にいるのが好きなんだ」と言い、ピーターが 「そうか?」と積極的に返事したので、「物語、書いてようか?」と提案し、ピーターは自由な時間ができるので大賛成する。次のシーンでは、庭のテーブルに座ったジェリーが、適当に作った動物の物語をルガレツィアに聞かせている(2枚目の写真)。そして、カメラが動いていくと、その横の茂みの中では、ピーターがマーゴといちゃついている(3枚目の写真)。そこに母がやってきて、ジェリーに 「ピーターはどこ?」と訊き、ジェリーが 「マーゴと一緒だと思うよ」と言って茂みの方を鉛筆で指す。母は、“家庭教師が仕事をサボって娘に手を出すなんて!” と怒った顔になり、茂みに向かって突進するように歩いて行く。それに気付いたズルいピーターは、話題を急に地質学に切り替え、母の怒りを解こうと必死になる。原作では、ピーターの登場は第十章「ホタル群のショー」。こちらのピーターは、それほど悪質な人間ではない。オックスフォードを出たばかりで、最初は教条主義的だったが、島に慣れると人間らしくなっていく。ジェリーが物語を書きたいというのは同じだが、ピーターが賛成するのは、教育上の効果のため。ピーターとマーゴの関係については、【僕が傑作に取り組み、プロットの詳細について息荒く、舌を突き出したロジャーとの議論を一休みした時、ピーターとマーゴは花を見ながら沈床花壇〔イギリス式の中央に行くほど低くなった花壇〕を散歩していた】とだけ書かれている。
  
  
  

別の日、以前ジェリーがコウモリの解剖をやっていたテーブルで、ピーターが手鏡を持ちながらハサミで髭を整え、完了すると、紙に何か書いていたジェリーに向かって 「マーゴはいつ戻る?」と不機嫌に訊く。ジェリーは、「さあ。母さんが買い物に連れてった」と言い、「シミター〔三日月刀〕って、どう綴るの?」と訊く。ピーターは、答えずに辞書を投げてよこし、「君が、その子供っぽいナンセンスを書き終えても、俺がそんなもん読むと思うか?」と、ひどいことを言う。怒ったジェリーは辞書をピーターの胸に投げつける。ピーターは、立ち上がると、「ママさんと兄貴には、君にはやる気がないって言っておく。きっとサリー〔ロンドンの南郊〕にある寄宿学校に行かされるだろう」と言って立ち去る(1枚目の写真)〔これほどひどい家庭教師もいないだろう/こんな場面は原作にはない〕。しばらくすると、ヴィラからレスリーが出て来て、「あの迷惑野郎はどこだ?」と訊く(2枚目の写真)。「行っちゃった」。ジェリーはいい機会なので、作っておいた “誕生日に欲しい物のリスト” を見せる。母のページには6つ(6つのうち1つ選ぶ)、ラリーのページには、して欲しいことの案がページ一杯に、マーゴにページには7つ書かれていたが、レスリーのページには、選択肢はなく 「ボート」とだけ書いてある。レスリーが 「どのくらい時間がかかるか、分かってるのか?」と訊くと、ジェリーが 「ボートのプロだよね」と言ってので、レスリーは すぐにオーライする(3枚目の写真、矢印は “欲しい物リスト” のノート)。原作第十一章「とても嬉しい多島海」では、そんなに簡単には事は進まない。①ジェリーが、レスリーに何をくれるつもりか尋ねる。②レスリーは 「考えてなかった。構わんぞ… お前の好きな物… 選べよ」と言ってしまう。③ジェリーは、ボートと言う。④レスリーは、そんな高価なものは買えないと怒る。⑤ジェリーは、レスリーはボートのプロだから、作って欲しいと思ってそう言ったと、映画と同じように言う。⑥レスリーは、作るのに何年もかかるから、代わりに自分のボート「ジュゴン」を週2回使わせてやると提案する。⑦ジェリーは拒否する。⑧レスリーはようやくボートを作ることをOKし、2週間かけて作る。
  
  
  

そして、ジェリーの13歳の誕生日。ナレーション:「私だけでなく、家族のメンバーがそれぞれ10人をパーティに招待した。不幸にして、全員が同じ10人を招いたわけではなかった。結果として、パーティの前日になって、母は、招待客が10人ではなく50人だと分かった」。原作第十一章では、招待客の数は、テオ博士だけ5人全員から招待状が届いたので、計45人。それでも予想外だったので、前日は買い物デー。車に食料品を山と積んで家に運ぶ。映画に戻り、ジェリーが招いた羊飼いのヤニが持ってきたプレゼントの袋の中には、2匹の子犬が入っていた(1枚目の写真、矢印は袋)。そのあと、スピロがジェリーに長いこと話しかけ、レスリーがボートを完成させて 「やった!」と叫ぶ。第十一章では、ジェリーは2匹の子犬をもらうが、ヤニからではなく、他の親しいお百姓さんから。そして、ボートは誕生日の朝には完成し、ジェリーに渡され、海へ行き 後で映画でも出て来る進水式が行われる。再度映画に戻り、ダンスが始まる〔特定の人物を写さない賑やかなシーンが50秒続く〕。そして、ダンスが終わると、ジェリーは部屋の隅のカーテンの方に歩いて行く。そこで、何かを聞いたのか、見たのか分からないが、驚いた顔で母の方を振り替えると、紐を引いてカーテンを開ける。すると、マーゴが招待したピーターとマーゴが熱烈にキスしているのが丸見えになる(2枚目の写真、矢印はジェリーが下げる紐)。ジェリーはさっと姿を消し、そのうち、2人の姿が、母の目に留まり、母は驚愕し、近くにいたテオ博士、レスリーとラリー、遠くのスピロまで、キスシーンを見てしまう(3枚目の写真)。それに気付いたピーターはすぐに止めるが、後の祭り。第十一章との決定的な違いは、ピーターはそもそもパーティに呼ばれない。
  
  
  

次のシーンは、前節に書いたように、原作では誕生日のパーティ(夜)のある日の朝に行われた行事。すなわち、レスリーが作ったボート。短い時間で作ったので、ボートというよりはタライを大きくしたような形状で、舳(へさき)とオールを置く場所がある分、少しだけだがボートらしい(1枚目の写真)。このボートの色について、原作には、【内側は緑と白に塗られ、カーブした側面は、白、黒、鮮やかなオレンジの縞模様で上品に覆われ、その色の組み合わせは芸術的で心地よかった】と書かれている。映画のボートは、外側は鮮やかさに欠けるが、色と模様は同じ。ただ、内側は淡い青緑一色なので少し違う。レスリーは、「水に浮かべる前に名前を付けないと」と言う。マーゴは、ジョリー・ロジャー〔海賊旗〕、母はアーバックル〔1933年に死んだアメリカの喜劇俳優〕、レスリーはブートル〔ボトル〕、ラリーはバムトリンケット〔役立たずの小物〕。それを聞いた母は、「失礼よ、ラリー」とたしなめる。原作では、レスリーはアーク〔箱舟〕と言い、ブートル〔ボトル〕を提案したのはジェリー本人映画で、ジェリーが何も言わないのは奇妙だった〕映画に戻り、レスリーはボートの大きさの割に背の高いマストを付けてから海に浮かべ、ジェリーが、「このボートを、ブートル・バムトリンケットと名付ける」と宣言し、レスリーが手に持っていたシャンパンではなく白ワインの瓶をぶつけて進水式を行う。しかし、そのショックで、ただでさえ重いマストが傾き始め、あっという間に真横になり(2枚目の写真)、そのまま沈没する。この部分、原作ではかなり異なっている。進水式は陸上で行い、終わった後に船を海に入れるものなので、①ジェリーは、「ブートル・バムトリンケット」の船名を、黒ペンキでボートに自分で書く。②4人(ラリー、レスリー、マーゴ、ピーター原作では彼はまだ仲間〕)でボートを持ち上げて桟橋まで運ぶ。③ボートの船名を宣言し、白ワインの瓶を船尾にぶつけたのは、レスリーではなく、船主のジェリー。その際、ラリーの顔にワインが掛る。④4人がボートを持ち上げ、桟橋から海に放り込む〔この時点でマストがないのは同じ〕。⑤マストを穴に差し込むと同時にボートは転覆する。映画に戻り、引き上げられたボートの上に乗ったレスリーは、1メートルほど残してマストを切断する(3枚目の写真、矢印は切断されたマスト)。ここも原作と違う。原作では、レスリーには適切なマストの高さが分からなかったので、ボートの様子を見ながら、少しずつマストを短く切って行き、1メートルくらいになった時、ようやくひっくり返らないようになった〔こちらの方がもっともらしい〕
  
  
  

マーゴは、「ピーターを愛してるのに。ひどいわ。ピーターは、この島じゃ他に仕事ないのよ。アテネに戻らないといけない」と言って泣き続ける。それに対し、レスリーが 「奴が、戻って来ようとしたら撃ってやる」と言うと、自分のことしか考えないラリーが 「(女性の権利に対して)ちょっと反動的だな」と、曖昧に批判する。レスリーは、「こんな場合、断固とした姿勢を貫かないと。家族の名誉が危機に瀕してるんだ」と つっぱねる。スピロは 「私は公表しました。もし彼が戻ろうとしても、港で阻止されるでしょう」と、レスリーに賛意を伝える。その時、母の声が聞こえる。「もう、何も言うことはありません。出て行って」。そして、ピーターは、永遠にこの家族から見放されて追い出される(1枚目の写真)。原作では、ピーターとマーゴの関係について、詳しく触れていない。確かに進水式にピーターも出て来たが、そのあと、原作には何も書かれておらず、いきなり第十二章「ヤマシギの冬」の冒頭に、【母は、非常に注意深く見ていて、マーゴとピーターが “お互いに過度に好意を持つ” ようになっていることに気付いた。(マーゴを除く)家族全員が、将来の配偶者としてピーターに不賛成だったため、明らかに何かしなければならなかった。この問題へのレスリーの貢献は、ピーターを撃つことだったが、この提案は、どういう訳か嘲笑されただけだった。僕は、素晴らしいアイディアだと思ったけど、少数派だった。ラリーは、彼の考えによれば、激情を静めるためにも、幸せなカップルをアテネに1ヶ月住まわせるべきだと提案したが、母は不道徳だとして却下した】と書かれている。ピーターがいなくなることに変わりはない。このあと、映画は、原作の脈絡のない “つまみ食い“ となる。最初の事件は、レスリーが 「誰かが『ジュゴン』からくすねていった」と怒ってヴィラに戻って来ることから起きる。母に 「そんなこと、誰が?」と訊かれ、「漁師だろう」と言い、大量のロープを首に掛けて出かける。そして、夜になり一発の銃声が家の中で響き渡る。何事かと家中が大騒ぎになるが、レスリーは、“侵入者警報装置” だと言い、それを聞いて怒ったラリーが部屋に入って行って見たものは、巨大な装置だった(2枚目の写真)。原作では、第十二章の冒頭の記述のすぐあとに、【レスリーは、彼のボート「ジュゴン」からいくつかの小さな品物がなくなっていることに気付き、夜 桟橋を通り過ぎた漁師たちを疑った。レスリーは漁師たちに真剣に考えさせようと決心し、彼の部屋の窓に3丁の長い銃身を持つ散弾銃を取り付け、丘の下の桟橋を標的にした。巧妙な紐の構成により、彼はベッドから出ることなく、連続して銃を撃つことができた〔寝たまま撃つことはできても、ベッドに寝ていて、“いつ撃ったらいいか”、どうやって判断するのだろう?〕と書かれている。映画の次の場面では、台所のテーブルの上に、レスリーが狩猟に出かけて持ち帰ったイノシシが横たえられている(3枚目の写真、矢印)。原作第十二章の半ばの辺りに、【母はレスリーが初めてイノシシを持ち帰るまで、彼の狩猟旅行〔アルバニアに2週間〕についてあまり考えていなかった。そのどっしりした筋肉質の体と、唸る時に上唇から突き出す鋭い牙を見て、母は気絶するほど息を呑んだ】から始まる、長い会話が続く。
  
  
  

このイノシシがきっかけとなり、口先だけのラリーは、狩猟なんか簡単だと言い張り、結局、レスリーと一緒にシギを撃ちに沼地に入って行く。ラリーは、さっそく 「こんなに湿っぽいとは思わなかった」と文句を言う。そして、飛び立ったシラサギを撃とうとして、引き金を引くが弾が出ない。レスリーは、バカにしたように、「弾を込めた方がいいかも」と言い、ラリーの猟銃に弾を2発込める」。次にシラサギが飛び立った時、2人は同時に発砲するが、発砲時の衝撃を知らないラリーは、そのまま地面に転倒する。運の悪いことに、転倒した場所は、底なしの泥沼(1枚目の写真)。レスリーは、「銃を頭上に掲げ、立ち上がらない。でないと沈んじゃう。そのままでいて」と注意するが、自分勝手なラリーは言うことを聞かず、銃身を泥の中に突っ込んで立とうとする。それを見たレスリーは 「ひどい! 銃身が詰まっちゃったじゃないか!」と怒る。垂直になったラリーは泥の中に真っ直ぐ沈んでいく。「ここから出してくれ!」。「銃を寄こすんだ」。「銃なんか、どうだっていい! 助けろ!」。「銃の端を持てなかったら、どうやって引っ張るんだ!」。ラリーが、銃を引っ張り抜いて、銃身をレスリーに渡す。しかし、一旦沈んでしまった体を引っ張るのは容易なことではない。2度目の必死の努力で、ようやく 言うことを聞かない兄を引き上げることができた。原作でも、この場面は第十二章のイノシシの直後。大きな違いは、マーゴとジェリーも同行している点。底なし沼に落ちた直後までは台詞が似ているが、落ちてから抜け出すまでは3人で引っ張ってもなかなか成功せず、最後に成功した後も、【彼は、真っ黒で悪臭を放つ泥にまみれて立っていた。まるで、溶鉱炉の近くにいたチョコレートの像のように】という状態だった。映画の次の場面は、ロジャーを連れて、「ブートル・バムトリンケット」に乗ったジェリーが水中を見ている場面(2枚目の写真)。僅か9秒映るだけ。本来ならジェリーが主人公のハズなのに、映画は、それ以外の場面ばかり映し、彼の生物観察は無視している。原作では、第十一章の誕生パーティの翌朝の話として登場する。【翌日の早朝、僕は収集道具と食料を詰め込み、ロジャー、ウィドル、プーク〔お百姓にもらった2匹の子犬〕と一緒に「ブートル・バムトリンケット」で調査を開始した】。そして、①自分の舟を持てることの楽しさ、②ハマグリに関する長い観察、③水面から10数センチくらいの場所に住む多様な生物の紹介、などが書かれている。映画の最後は、ピーターと引き離されてから意地になったマーゴが、一人で長時間日光浴をしたため、肌を真っ赤にして帰宅する場面(3枚目の写真)。原作では、前節に出てきた “侵入者警報装置” の次に書かれている。
  
  
  

泥まみれになったラリーは、恥ずかしさもあってブランデーをガブ飲みして寝てしまい、母は薬の入った液体をベッドサイドに置くと、暖炉に薪をくべてから出て行く。翌朝、ジェリーとマーゴが台所に行き牛乳を飲んでいると、煙を吸ったジェリーが咳きをする。2人は、漂う煙を不審な目で見る。煙の出どころをよく見ると、二階の木の床から漏れるように出ている。ジェリーが 「火事だ」と言い、マーゴも もっと大きな声で 「火事だわ!」と叫ぶ(1枚目の写真)。そして、2人は 「火事だ!」。「起きて! 家が火事よ!」と叫びながら、階段を駆け上がる。最初に部屋から飛び出したのはレスリー。次に出て来た母に、マーゴは 「ラリーの部屋で火事!」と叫ぶ。いち早くラリーの部屋に入ったジェリーが、暖炉の前の床に落ちている “火の点いた薪” を拾おうとするが、熱くてできない。ラリーは熟睡していて母が起こそうとしても起きない。レスリーが 「何か(液体を)かけろ」と言ったので、マーゴは暖炉の上に置いてあったブランデーの瓶を取ってかけてしまう(2枚目の写真、矢印はブランデーの液)。火はますます激しくなる。ジェリーは、ベッドからシーツを剥がすと、それを薪に投げつけて一発で消す(3枚目の写真、矢印はシーツ)。原作では第十二章。ラリーが泥まみれになった夜。母でなくマーゴが飲ませようとしたのは下剤の硫酸マグネシウムを水に溶かしたもの。火事の原因は、【暖炉から火の点いた薪が床板に滑り落ち、その下の梁に火を燃え移ったこと】。最初に火事を見つけたのはマーゴ。火事だと触れ回ったのもマーゴ。レスリーに言われて、マーゴがうっかりブランディーをかけるのは同じだが、最終的に火を消したのはジェリーではなく、全員で床板を剥がし、その下でくすぶっている梁の火を(どうやってか)消したから。何れにせよ、映画でははっきりしなかったが、火事の責任はラリーにはない。
  
  
  

それまでの話の延長ではなく、全く新しい場面。一家が、庭の端のテーブルに座って思い思いのことをしている。母は、ロンドンにいるハーマイオニ大叔母からの手紙を呼んでいる。その中には、恐ろしいことが書かれていた。医師が暖かい気候を勧めているので、コルフ島に行きたいという内容だった(1枚目の写真)。全員が反対し、対策として、レスリーが 「部屋がないって、手紙に書いたら?」と言うと、母は 「できないわ。大きなヴィラに住んでると書いたから」と答える。口の悪いラリーが、「これで行こう。僕が、母さんが死んだって、手紙を書くんだ」。このひどい案には、他の3人から 「ラリー!」と責める声が上がる。次に、ラリーが 「分かった。じゃあ、もっと小さなヴィラに引っ越そう。そうすりゃ、ジャングルボーイも忌まわしい動物たちを何匹か処分せざるを得なくなるだろう」と言うと、ジェリーは 「そっちのバカ友だちより、よっぽどトラブル少ないよ」と反論(2枚目の写真)。「そうか?!」。「兄さんだって動物だ。真っ先に追い出そう」。喧嘩を収めるため、マーゴが 「大き過ぎるわ、この家。階段、ホントに疲れるの」と言う。以上の議論を聞いた母は、「子供たち、私たち二度と引っ越しませんよ」と言う。原作では、この部分は、第十二章の後に特別に設けてある「話し合い」という一種の章の中で詳しく書かれている。まず、大叔母について、手紙の内容がもう少しはっきり分かる。【「あなたは、今や広大な住居を構える余裕があるようですから、確信していますよ、愛しいルイ、あなたが もう長くは生きられない老女に、小部屋を惜しみなく与えるだろうと」】。それに対する対抗策は3つ。①島では天然痘が流行していると手紙に書く/ここが如何に健康的か書いてしまった。②「転居先不明〔Gone Away〕」と書いて送り返す/開封してしまった。③母が病気で医者は見放した/そんなことをすれば、すぐ看病に来る。ラリーの小さな家に引っ越すという案に、母は 「でも、そんな風にヴィラを移り続けるなんて異常じゃないの?」と言うが、反対はしない。要は、母が 映画のように拒否しようが、原作のように曖昧に反対しようが、結果的には、今までで一番小さくて、とてもヴィラとは言えない白い家に引っ越すことになる(3枚目の写真)。この写真だけは、原作第十三章「雪のように白いヴィラ」に該当する。
  
  
  

引っ越しの場面は、家が映っただけで終わり、その後に、原作第十三章「雪のように白い家」の冒頭のすぐ後に書かれている “カマキリとヤモリ” の映像が20秒流れただけで、この章に関する映画での表現は終わる。そして、次のメイン・シーンは、3度目になる第十六章。以前の2ヶ所より前の部分。一家5人とスピロが、2隻のボートに分かれて乗る(レスリーのモータボートが、ジェリーの円盤に近いボーイを引っ張って走る)シーン。映画では何の説明もないので、原作を引用すれば、【穏やかな海を予感させる 暖かな真珠色の夜明けに 僕たちは出発した。家族、犬たち、スピロ、ソフィア〔女中の末っ子〕のすべてを乗せようとすれば、レスリーの「ジュゴン」だけでなく、「ブートル・バムトリンケット」も使う必要があった。円形の「ブートル・バムトリンケット」を引っ張るため、スピードは落ちたが、やむを得ないことだった。ラリーの提案で、犬たち、ソフィア、母とセオドアは「ブートル・バムトリンケット」に乗り、残りの僕たちは「ジュゴン」に乗った】となる。ただし、映画では、犬はロジャーだけで、ソフィアは存在しない。そして、「ブートル・バムトリンケット」に乗ったのは、母、スピロ、ロジャー。スピロは、海に慣れていないのかすぐに船酔いし、海に向かって吐く始末。そこで、母は 「ねえ、停まって!」とレスリーに呼びかける(1枚目の写真、矢印はスピロ)。そこで、海の上でどうやって入れ替わったかは分からないが、「ジュゴン」には、レスリー以外に、母、スピロ、ロジャーが乗り、それまで「ジュゴン」に乗っていた3人が「ブートル・バムトリンケット」に乗る。それでも、スピロは気分が悪そうだ(2枚目の写真)。原作でも、「ジュゴン」を操船するレスリーを除く全員が途中で入れ替わる〔方法は不明〕。最終的に、一家とテオとスピロは海岸沿いの平らの岩の上で休む。原作で、第十六章の題が「ユリの湖」となっている理由は、この2隻のボートの旅は、実は海ではなくアンティニオティという “島の最北端にある面積僅か188ヘクタールの汽水湖” で行われ、目的地の砂丘全体が白いユリの花で覆われているから。だから、映画では、その肝心の部分を再現していない。3枚目の写真は、ジェリーがテオに、「カモメが飛んでるよ」と指差すところ原作にはない〕映画で、以前、テオが『トスカ』の話をしたのも、母が 死んだら埋めて欲しいと言ったのも、原作のこの砂丘の上での会話だった。
  
  
  

前のシーンとの区切りに、ナレーションが流れる。「島の魔法が、花粉のように優しく まとわりつくように私たちを覆っていた。毎日が平穏で時を超越していた。私たちはそれが終わらないで欲しいと願った」。そして、いきなり、薄汚れたジェリーが、枯葉の上で横になっている姿が映る。ロジャーは吠えながらトカゲを追って行き、目を覚ましたジェリーが見上げると(1枚目の写真)、木の枝にカササギの巣があるのが見える。そこで、ジェリーは木を登っていき、細い枝で作られた巣のそばまで行くと(2枚目の写真、矢印は巣)、中に手を突っ込む。ここは、原作第十五章「シクラメンの森」の最初の場面だ。木を登るシーンは、映画のように “易々と” ではない。【僕は意気込んで木を登り始めた。巣に近づいて下を見た時、僕は恐ろしくなって震えた。というのも、僕を熱心に見上げている犬の顔がルリハコベの花〔直径約1~1.3cm〕ぐらいの大きさだったから。僕は、手のひらに汗をかきながら、枝に沿って慎重に進み、そよ風で揺れる葉っぱに囲まれた巣の横にしゃがみこんだ。下を見ないようにしながら、僕は枝に沿って腹ばいになり、棘の塊の中に慎重に手を突っ込み、泥のくぼみの中を手探りした。指の下で柔らかく震える皮膚と綿毛を感じると、巣の中から甲高く喘ぐよう音が聞こえてきた。僕は、丸々として温かい赤ちゃんをそっと指で包み、取り出した】映画に戻り、ジェリーがカササギの雛を入れた既製品の籠と、小型動物を入れた “即席に作った竹籠” を持って家に入って行くと、母が 「どこにいたの?」と問い詰める。「どうして訊くの?」。「2日間も行方不明だったのよ」。「僕がどこにいたか、知ってたんじゃないの?」。「いいえ、どこなの?」。「いつもと同じトコだよ」。「お願い、外泊はやめて」。この会話から、どうしてジェリーの体が汚かったのかが分かる。半パンツだけ、しかも裸足で2日間行方不明だったということは、屋外で2泊して、その間、風呂にも入れないので、体は臭くて汚れきっている。それにしても、2日も行方不明で、母親として、事故による怪我や病気の心配などしないのだろうか? このあと、スピロがやってきて(3枚目の写真、矢印はカササギの雛の籠)、英語のカササギの複数形 「magpies」 を正しく発音できず、何度訂正させても 「maggenpies」 としか言えないので、家族も 「maggenpies」 と発音する場面がある。原作も似ている。
  
  
  

最後のまとまったシーンは、母が水着姿で海に入るシーン。島に来てから一度も海に入ろうとしなかった母が、子供たちからの強い要望に従い、昔買ってから恥かしくて一度も使ったことのない水着(バレエ・ダンサーのような飾りの付いた黒い水着)姿で浜辺に立つ(1枚目の写真)。それを見たマーゴが 「1920年代の水着みたい」と言うと、母は 「当時は、これしかなかったのよ。悪いわね」と反論する。テオ博士は、「ダレルさん、素敵ですよ」と 紳士らしく言うが、酔っ払ったラリーは 「水から出る時、魚を振り落すのを忘れないように」と口走り、母は 「お黙り! 私の晴れ舞台を台無しにするんじゃないよ!」と、珍しく声を荒げる。それにもかかわらず、ラリーは 「水の中に入る。生き物が中に入る」と笑顔で言う。母が数メートル海の中に入って行くと、ロジャーが吠えながら母に向かって行き、水着に付いたフリルを加えて引っ張ったため、フリルは破れ、母は転倒する(2枚目の写真、矢印は破れたフリル)。母を助けに海に入って行ったのはテオ博士。ラリーは、「お尻モンスター」と言って笑う。ロジャーの行動について、原作第十章では、【ロジャーは、水着のことを、“母を覆って海に連れ去ろうとしてする海の怪物” だと思い込んでしまったようだった。そして、激しく吠えながら助けようと飛びつくと、水着の裾を一周するようにブラブラと揺れているフリルの一つに噛みつき、母を安全な場所へ引き戻そうと全力で引っ張った】と、その動機が書かれている。母が海から上がるのと入れ替わりジェリーが海に飛び込む。ジェリーはさっそくラリーの餌食となり、掴んで海の中に投げ入れられ、次のシーンでは報復しようとして失敗する(3枚目の写真)。それにしても、原作の最後の第十八章第十七章を完全に無視し、第十四章第十三章にも全く触れず、なぜ第十章をコルフ島での最後のシーンにしたのだろう?
  
  
  

“雪のように白い家” での最後の場面は、部屋に入り込んだカササギをクリケットのバッドで叩き落とそうとしているラリー(1枚目の写真)。このように、ジェリーが集めて来た動物は、場合により家族に迷惑をかけてきたが、あちこちの章に記載があるので、どこから取ったのかは特定できない。そして、そんな鳥が至る所にいる白い家をテオ博士が訪れる。そして、母に向かって、「ダレルさん。残念ですが悪いお知らせがあります」と言う。てっきり、ジェリーがまた迷惑行為をしたに違いないと思った母は、「ジェリーが何をしましたの?」と訊く。「いいえ、何も。あなたは、家族と共に、イングランドに返るべきだと思います」。今度は、ラリーがまた何かやらかしたと思ったマーゴが、「ラリーが、またみんなに迷惑を掛けたのですか?」と訊く。「英国とギリシャは間もなく戦争に巻き込まれます。離島が遅れると、戻るのが大層困難になるでしょう」(2枚目の写真)。母は 「とてもジェリーには話せないわ」と心配する。そこにラリーがやって来て、みんなの様子が変なので、3番目の勘違い質問をする。「レスリーが、誰かを撃っちまったの?」。母は 「島を離れないといけないの」と話す。ラリーは、ジェリーの動物にあれだけ悩まされたのに、「そうか」と残念そうに言う。レスリーは 「テオも運が悪いですね。ジェリーの動物の世話をさせられますよ」と言うが、テオは 「ああ、ちゃんとやるよ」と笑って言う。そこに、タモ網を持ったジェリーが家から出て来る。母が 「ごめんね、ジェリー」と謝ったので、その場の異様な雰囲気に気付いたジェリーの顔が曇る(3枚目の写真)。「私たち、イングランドに戻るの」。皆が、辛そうな顔でジェリーを見る。なお、上記の「英国とギリシャは間もなく戦争に巻き込まれます」というのは、歴史的に見て、イタリアのムッソリーニによる “来たるべきギリシャに対する戦闘” に対処するための準備として、1936年にパリアーニ将軍が陸軍参謀総長に任命され師団の再編が始まり、それが、1939年4月のアルバニア侵攻につながることくらいしか思いつかない。しかし、映画の設定の1936年の段階では、イギリスに戻らなければならないほどの危機的状況ではないので、これは映画の創作。原作第十八章の後に特別に設けてある「帰国」という一種の章の冒頭で、ジェリーの最後の家庭教師クラレフスキー映画には出て来ない〕が、①彼はジェリーにできる限りのことを教えた、②ジェリーはイギリスかスイスにでも行って教育を終えるべきだと告げ、母は全面的にそれに賛成したと書かれている。これが帰国の理由。原作では、1935年から1939年までコルフ島で過ごし、1940年10月のイタリア軍のギリシャ侵攻が1年後に迫っていたにもかかわらず、戦争が原因で帰国した訳ではない。
  
  
  

2本マストの木造帆船の前で、テオ、スピロ、ルガレツィアが見送りにきている。一番感情的なのはスピロで、全員を固く抱きしめて別れを悲しむ。テオは、ジェリーに 「必読書を書き留めておいた。難しすぎるもんじゃなない」と言って2冊のノートを渡し(1枚目の写真)、そのあと、「だがな、思うに、最も大事なことは… そうだな…」と言ったところで何も言えなくなり、ジェリーがテオに感謝を込めて抱き着く。島に来た時と違い、全員が落ちこんだ感じで船尾に座り込む(2枚目の写真)。ジェリーは母に、「で、僕たちいつ戻って来るの?」と訊く。母は 「すぐよ、ジェリー、すぐ」と言った後で、「あなたが、もうちょっと教育を受けた後でね」と言う。そのあとで、乗船した時、例の税関吏から渡された紙を見て、母は 「何て失礼な男なの」と怒る。そこには、「乗客の説明: 巡業サーカス団員」と書かれていた。一緒に持ち込んだたくさんの鳥籠のせいであろう(3枚目の写真)。この紙のところだけ、原作と一致している。映画の最後は、ナレーションで終わる。「イングランドに戻ると、私が 『教育なんかあれで十分だよ』と抗議したにもかかわらず、母は私を学校に行かせた。(私が島で) あらゆることに驚いていたのは、無知なるが故だった」。
  
  
  

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