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Het Boek van Alle Dingen
     すべてのことを書いた本  (AIのハルシネーション版)

オランダ映画 (2024)

シュリンゲル国際児童青少年映画祭で最優秀国際長編映画賞、フィレモン:ブリュッセル国際児童映画祭でECFA賞とプレス賞を受賞し、他に11のノミネートを受けた作品。私も、映画を最初に観た時は、1961年という時代性を反映した面白い作品だと思い、今回紹介するリストにあげた。しかし、AI と話を進めながらあらすじを書いていく中で、2004年に書かれて、高い評価を受けた同名原作映画の間には、大きな違いがあることを知った。そこで、まず、原作について、AI が語ったことを紹介しておこう。原作者のフース・カイパー(Guus Kuijer)は1942年に生まれ〔現在83歳〕、1950年代のオランダで少年時代を過ごした。彼がこの作品に込めた「自伝的側面」には3つの要素がある。①カイパーの両親は、カトリック使徒教会(Katholiek Apostolische Kerk)という非常に厳格な宗派の信者だった。一方、原作では、オランダ改革派教会(解放派)(Gereformeerde Kerken in Nederland (vrijgemaakt))の信者になっている。カトリック使徒教会の信者は、「自分たちは選ばれた民であり、もうすぐ世界は終わる」という終末観の中で生きている、周囲から理解されない孤独な集団だった。カイパーは、後に「幼い頃から、神を信じた記憶が一度もない」と語っているが、そうした終末感が、日常的な恐怖だったからであろう。原作を書くにあたり、設定を「解放派」に変えたのは、カトリック使徒教会という特異な小集団ではなく、当時のオランダの人口の半数近くを占める大集団だった解放派にした方が、「宗教が子供の精神を抑圧する」というテーマを、「当時のオランダ社会全体の問題」にできたからだとされる。②カイパーが原作を書くにあたり、その着想を与えたのは一人の少年だった。彼は、子供の頃、原作の主人公のトーマス同様、自分の本にすべての出来事を書いていた。そして、その少年は、過酷な環境の中で「Later word ik gelukkig(大人になったら、僕は幸せになるんだ)」と書くことで、かろうじて正気を保ち、未来を繋ぎ止めていた。カイパーは少年のこの言葉に深く打たれ、彼と、自分のために、『Het Boek van Alle Dingen』を書きあげた。だから、あらすじの最後に書いたように、原作のラストを飾るこの重要な言葉を、映画が無視したのは許されない行為なのだ。③カイパーは、児童文学を通して一貫して「子供の尊厳」と「大人の偽善」を描いてきた。彼にとって、トーマスがパーティーで放った「真実の言葉」は、彼が子供時代に権威的な大人たち(父親や教会)に対して言いたくても言えなかった「時を超えた反撃」だった。これも、あらすじの最後から2節前に書いたように、原作では父の暴力を出席者に暴露した強烈な「真実の言葉」の代りに、映画では、「無意味に近い詩」をトーマスに言わせたことで、カイパーがこの本を書いた主眼の3点のうちの2点目までも無視してしまった。つまり、原作を読まずに、この映画を観た人は、風変わりな時代背景の中で、恐ろしい父に怯えながら、空想の世界に行き、ラヴにも目覚める9歳の少年を楽しく描いた映画だと感心したかもしれないが〔特に、トーマスの姉が父に対して反抗する場面は、これまで観た中でも最高に素晴らしい〕原作を読み、それから20年経っても原作の内容をしっかり覚えている人、もしくは、映画を観てから原作を読んだ人にとって、映画は失望以外の何物でもなかった。映画の監督は、1956年生まれで、17回の受賞歴と20回のノミネート歴をもつベテランなので、子供向けにはあまりに厳しい内容を、子供が観ても衝撃を受けないように変えたかったのかもしれないが、それにも限度はあるわけで、原作の主旨を完全に歪めてしまったことは、明らかな失敗だったと断言できる。

なお、翻訳にあたっては、オランダ語字幕が存在せず、英語字幕のレベルが低いので、ロシア語字幕を使用した。それでも、理解できない部分は、AI を使ってオランダ語の原作の文章と対比し、正しい意味の把握に努めた。今回ほど、AI をフルに利用したのは初めてだった。AI は、なかなか正しい文脈に辿り着くまでに時間がかかるので、正確な状況を理解させるのに時間がかかるが、一旦そこに辿り着くと、あらゆる情報を駆使して、あらすじの作成に貢献してくれた。

主役のトーマス役のブランドン・リファー・クーネ(Brandon River Coene)は8月30日生まれとだけ書かれ、何年かは分からない。TVに出演したことはあるが、映画はこれが初めて。姉のマルホは極めて印象的だが、トーマスは主役なのにあまり目立たない。

あらすじ

1961年のアムステルダムのザウト(Zuid、南)地区にあるテラスハウス〔一戸建て感覚の集合住宅〕が舞台。9歳になるトーマスは、1冊の白紙の本を取り出し〔ノートというには立派すぎる〕、表紙をめくった本扉にどんな題名を書こうか考えたが(1枚目の写真)、いい案が思いつかないので、次のページをめくり、ペンをインクボトルに入れる。場面は変わり、小部屋に置いてある熱帯魚の水槽越しに、食卓に座っている一家4人が映る(2枚目の写真)。食卓では、父が 包丁を何度も “研ぎ棒” に擦り付けて研いでいる。トーマスが、相手を特定せずに、「本には、たいてい どんなことが書いてあるの?」と訊く(3枚目の写真)映画のタイトルに関係する重要な質問〕。姉のマルホは、「愛とかそういうものね。でも、君まだ幼なすぎるよ」と言う。

父は、レアに近いミディアム・レアに焼かれたステーキを、研いだ包丁で半分に切り、それを自分の皿に乗せながら、「すべての重要な書物は… 神について語っている」と言う(1枚目の写真、黄色の点線は、切り取った肉)。そして、俎板に残った半分を、妻とマルホとトーマス用に三等分する〔何という不平等!〕。母は、「でも、愛についても書いてあるわ」と、トーマス見てほほ笑むが、父が、「この家で本を読んでいるのは誰だ?」と訊くと、3人は黙り込み、妻が沈黙を長く続けたくないので 「あなた」と答える。夫はさらに、「本の内容が何を意味するのか、よく知っているのは誰だ? 君か? 私か?」と訊きながら、3つに切り分けた小さなステーキを、マルホの前を通り越して、妻の横に置く(2枚目の写真、3人用に番号をつけておいた)〔非常に少ない量〕。「あなた」。ここで、反抗期に入ったマルホが、「お母さんの料理の本」と言って笑うが、母もトーマスも怖くて笑わない(3枚目の写真、矢印は、3人用のステーキ)。次のシーンでは、トーマスが自室の窓辺の机に向かって座っているで、恐らく、先程のことを本に書いているのであろう。

日曜の朝、黒ずくめの服装に着替えた一家4人は、カルヴァン派のオランダ改革派教会(解放派、vrijgemaakt)に出かける(1枚目の写真)。この解放派は、1961年頃のオランダの人口の40~45%を占めていたカルヴァン派の中で、1944年の「解放(Vrijmaking)」という教会分裂によって生まれた過激派で、「自分たちの教会だけが唯一の真の教会であり、他はすべて偽りである」と強く信じていて、他のカルヴァン派と交流を絶ち、極めて閉鎖的なコミュニティを形成していた。映画の中で父が聖書を武器に家族を支配し、体罰を正当化する背景には、この教派の極端な家父長制的な解釈がある。その父が、神聖な日曜に、引っ越してきたお向かいさんの一家を見て、「罪深き者ども!」と貶す。一方、一番後方にいたトーマスは、トラックの助手席から下りて来た “革で覆われた義足を装着した年上の少女” をじっと見ている(2枚目の写真)。父が、「トーマス、行くぞ!」と叱り、トーマスは走って追いつく(3枚目の写真、左の矢印はトーマス、右の矢印は義足のエリサ)。因みに、このロケ地は、ラトビアのリガだとか。

運河沿いに歩いて行く途中、トーマスは、水から跳ね上がった魚を見て、両親に 「運河にソードテール〔家で父が水槽で飼っているのと同じ赤い熱帯魚(体長15cmで最大級)〕がいるよ!」と言いに行き、母は呆れ、父は無視。マルホだけは、「子供の幻覚ね」とバカにし〔実際、トーマスはいろいろな幻覚を見る〕、それに対し、トーマスは、「姉さんこそ、救いようのない分からず屋だね」と反駁する。教会の入口で、トーマスは、叔母のピーに会う。トーマス抱き締めて持ち上げてくれる優しくて楽しい叔母さんだ。そして、教会の中のシーン。いわゆる 「悔い改めの祈り」。牧師が、「主の御目を逃れうるものは、何ひとつありません」と勧告し、信者の1人が、「慈悲深き主よ、我ら貧しき罪びとをお憐れみください(Heer God, ontferm U over ons, arme zondaars)」と歌う。牧師が、次に、「なぜなら我らは、主の御子と呼ばれるに値しない者たちだからです」と勧告する、父が、長さ2mはありそうな棒の先端に付いた献金袋で、何か別のことを考えていたに違いないトーマスを突き、歌うよう命じる。とっさに立ったトーマスは、「慈悲深き主よ、我らの乏しき小銭をお憐れみください(Heer God, ontferm U over onze schamele centjes)と歌ってしまう(1枚目の写真)〔空想から現実に引き戻され、目の前に小銭の入った袋が音を立て、恐らく貧しい父にもらうお小遣いも少なかったので、こんな歌詞になってしまった〕。教会の出口で、他の信者から、「あなたの息子さんはユーモアのセンスがありますね」と言われた父は、恥ずかしく(2枚目の写真)、「そう、彼は本当に冗談好きなんですよ」と、トーマスがワザと言ったと誤解したまま帰宅する。そして、トーマスが上の階〔トーマの家は、集合住宅の2・3階にある〕に逃げようとすると、トーマスを目の前に立たせ、もう一度、間違った歌を歌わせる。母は、「ワザとじゃないわ」と庇うが、「お前の出る幕じゃない」と無視。それでも、母が、「まだ9歳なのよ」と言うと、いきなり母の頬を強く引っ叩く(3枚目の写真)〔非常に暴力的〕

そして、トーマスに、「スプーンを持って上の階で待て」と命じる。トーマスはキッチンに行き、大さの異なる木のスプーン〔大きな鍋で料理をかき混ぜるための調理用スプーン〕の中で、一番大きいのは痛いので、二番目に大きいスプーンを取ると(1枚目の写真)、上の階の自室に行き、イスの上にスプーンを置き(2枚目の写真、矢印)、パンツを脱いで父の来るのを待つ。父は、スプーンを手に持つと、それで何度もトーマスのお尻を叩く(3枚目の写真、矢印)〔いつも、こうして罰せられる〕。お仕置きが済んだ後、父は、「百回、一字一句繰り返したら、また戻って来い」と言って出て行く。

父がいなくなると、トーマスは、「神様、お願い。どうか僕の父を罰して」と、窓から空を見上げて頼む。そして、「お願い、神様… 死なないで。お願い、神様… 僕を見捨てないで」と言うAI は、この言葉の持つ意味に対し、❶トーマスが、“恐ろしい神(父の信じる神)” を殺し、“愛すべき神(自分の心の中の神)” を生かそうとするための、非常に孤独で、かつ勇敢な決意の言葉、❷トーマスが自分の心の中に、父親のそれとは違う “小さくて、慈しむべき神様” を見出した瞬間、物語は静かに、しかし力強く動き始める、と分析する〕。この神への呼び掛けの際、壁に掛けられたイエス像が大きく映される(1枚目の写真)。トーマスは、さらに、「聞こえる? 神様なら、父を罰することだってできるでしょ? 僕はトーマスだよ。ねぇ神様、もし本当にいるんなら、僕を助けてよ… どうしても、あなたと話したいんだ。お願い、神様」(2枚目の写真)〔「もし本当にいるんなら」という言葉は、神の存在を疑っていることになる。厳格なキリスト教徒の息子がなぜ疑うようになったかについて、AI は、❶トーマスは、父の押し付ける “神”  を信じることをやめ、“自分にとっての真実” を探し始めている、❷だからこそ、神の存在を前提とした祈りではなく、“条付きの問いかけ” になった、❸この “神への疑い” こそが、後にトーマスが父の支配( 偽りの神の支配)を跳ね返すための、精神的な武器になっていく」と分析する〕。そして、トーマスには、そのことを本にも書き始める。「父を罰して欲しい。だって、彼はママを叩いたんだ。僕は絶対許さない!」。そう書いていると、トーマスの背後の壁に架かっている先程の絵で、イエスの左手が外れ(3枚目の写真、矢印)、すぐに右手も外れる。そして、いきなり、「ねえ、トーマス」と声がする。その姿を見て、トーマスはすぐに壁の絵を見て、そこには十字架しか残っていないことを見て、イエスが来てくれたことを知る〔もちろん、空想上の存在〕。「大丈夫?」。「ううん」。「どうしたの?」。「彼はママを叩いちゃダメだ」。「彼って?」。「知ってるでしょ?」。「ああ、全能の神よ。彼は 完全に狂ってしまったのか?」(4枚目の写真)。「こんなの初めてじゃないよ。正直言って、あなた全然役に立たなかったね」。「役立たずだって? 私は全人類を救ったでしょ?」。「僕ら以外をね」〔❶トーマスが、女性のイエスを変に思わない理由について、AI は、「トーマスにとって、父が語る “神” や “イエス” は、暴力的で、厳格で、自分を罰する “男性的な恐怖” の象徴、❷トーマスの空想(あるいは幻視)の中に現れるイエスが女性(母の姿)なのは、彼が “父の教える恐ろしい神” を拒絶し、“母のような優しさを持つ神” を無意識に作り上げたから〕〔トーマスが矛盾を感じない理由は、❶彼にとってのイエスが “宗教的な正解” ではなく、“唯一の理解者(友人)” だから、❷父が信じる “男の神” ではなく、“女のイエス” と語り合うこと自体が、トーマスの精神的な自由と自立の象徴になっている」と分析する〕 

「僕ら以外をね」という不満を聞いたイエスは、「全人類を救った」という観点に盲点があったことに気付き、何も言わずに窓を開けると、天に登る階段を出現させる。階段を登っていくイエスに、トーマスは、「ねえ、あなたのお父さん〔神〕と話したいんだけど。一緒に行ってもいい?」と声を掛けるが、返事がもらえないので、トーマスは勝手に階段を登り天に向かう(1枚目の写真、矢印)。トーマスの空想の世界なので、登って行った先にあるのが天国なのか、単なるイエスと天使たちの住処なのかは分からないが、そこに、人間が一列に並んでいる。トーマスが、「神様は、どこにいるか知らない?」と、そのうちの1人に訊くと、「みんな待ってるんだ。列に並んで」と言われる〔ここは、トーマスの空想の世界なのに、なぜ他人がいるのか? 理解できないので、AI と何度も会話し、結局、❶トーマスに、「なんだ、神様は僕ら3人を無視しているだけじゃなくて、みんなのことをほったらかしにしてるんだ!」と悟らすために作った場面ではないかということで意見が一致した。つまり、❷トーマスは、全人類を救うために “ものすごく忙しくしているはずの人〔神〕” が、多くの人を放置しているのを見て、“神への過度な期待” から解放され、『僕は本を書いて幸せにならなきゃいけない』と思った、という解釈だ〕。イエスは、天使に手伝わせて十字架に体を結び付けさせるが、イエスも、父に向かって、「あなたは、2000年もこれを続けさせている」と不満を言い、十字架を立てる前に、中止して自分を降ろすよう天使に命じる(2枚目の写真)。天使たちは、トーマスの空想なので全員女性なのだが、「彼〔神〕は とても忙しいの」。「でも、君が立ち寄ってくれたって伝えておくよ」。と声をかける。すると、場面は空想から現実に戻り、トーマスが本に、「絶対、許さない!(vergeef hem NOOIT!)」と書く(3枚目の写真)。

翌日、運河に沿った草地の上に、トーマスが布を敷いて座り〔ズボンを汚さないよう、父から強く言われている〕、昨日も見たソードテールが、水の上で跳ねているのを楽しそうに見ている(1枚目の写真、矢印)〔何度も書くが、空想〕。すると、そこに、お向かいに越してきた義足のエリサがすぐ横まで歩いて来て(2枚目の写真、矢印は義足)、「今日は」とトーマスに声をかける(3枚目の写真)。エリサは、そのまま両脚を投げ出して隣に座ると、「これ義足よ。だからギーギー軋むの。触ってみる?」と訊く。年上の女の子に、そんなことを言われても遠慮してできないので、逆に、「あの熱帯魚、見える?」と訊く。エリサは、トーマスの空想上の存在を 「ええ」と言って認めた上で、「休暇で出かける時、トイレに流して捨てる人もいるのよ。下水道には、ワニがいることだってあるわ」と、空想を拡大させる。「見たことあるの?」。「すごくおっきなワニがいたわ。トイレによ。触らない方がいいわね、あっという間に指を4本とも噛み切っちゃうから!」と言って、小指1本だけになった手を作って見せる。この会話で、トーマスは、エリサが 、“空想の世界を共有できる相手” だと分かる〔ある意味、母以上の存在 → 年は離れていても友達になりたいと強く願うようになる〕。お互い名前を交換した後、去って行くエリサを、トーマスはじっと見つめる。

場面は、二度目で最後の教会でのシーンに変わる。つまり、6日後だ。牧師は、旧約聖書の『出エジプト記』を読み上げている。「主はモーセに言われた。『ファラオのもとに行き、わたしの民を去らせよと告げよ』」(1枚目の写真)「しかし、ファラオはモーセの言うことを聞かず、主の怒りを招いた。十の災い。神はエジプトの地に災いを下した。が彼らの家と寝床に入ってきた。そして主は川の水をすべてに変えられた。はすべて死んだ」〔『出エジプト記』の7章と8章から、映画に関係する部分を簡潔に抜き出したもの〕。ここまで来た時、トーマスはマルホに、「ファラオが悪いからって、魚たちには罪はないよね?」と訊く。「しかしファラオは頑固で、高慢で屈服しなかった」。マルホが答えないので、トーマスは 「どうして魚が殺されなきゃいけないの?」ともう一度、表現を変えて尋ねる。父が勝手な発言をするトーマスを睨み、母は 「静かに」と小声で(笑顔で)注意する〔トーマスの質問は、「暴君として君臨する父(ファラオ)により、なぜ母、マルホ、自分(魚たち)が我慢しなければならないのか」という疑問に発展していく〕〔この “血”、“すべて死んだ魚”、“家に入り込む蛙たち”は、映画のその後に大きな影響を与える〕。家に戻ったトーマスは、隣に住む老女アメスフォーツ夫人が、“邪悪な魔女” として悪ガキ連にからかわれている時、ドアから外に出て行く。すると、猛犬が夫人と悪ガキ連の方に猛然と走ってくるが、夫人が、両手を拡げて 「オー」と言い、小声で、「いい子、いい子」と囁くと、急におとなしくなる(2枚目の写真)。夫人が、さらに、「私の意志に従え」と言うと、地面に横たわる。「いい子だね。家に走ってお帰り」。その言葉で、犬は走っていなくなる。それを見たトーマスは、夫人が両手で持っていた重そうな荷物を代わりに持つと、アメスフォーツ夫人に付いて家に入って行く。夫人は、荷物を持ってくれたお礼に、「トーマス、オランジャード〔オレンジ水〕を一杯いかが」と言い、赤い液体の入ったビンとコップを持ってくるAI によれば、❶オランダでは、かつて果汁入りの甘い炭酸飲料やシロップ水を総称してオランジャード(Oranjade)と呼ぶことがあった、❷たとえ中身が赤いベリー系(ラズベリーやグレナデン)であっても、“子供が飲む甘いソフトドリンク” の代名詞として、慣習的にそう呼んでいたケースがある〕。トーマスは、夫人が自分の名前を知っていたことに驚く〔隣の家に永年住んでいれば知っていても当然〕。夫人は、トーマスの手に赤い液体の入ったコップを置いた時、「よ」と言って くすくす笑う〔魔女らしい冗談〕。トーマスは、渡されたコップに注がれた真っ赤な液体を見て、牧師の「主は川の水をすべてに変えられた」を思い出し、緊張するとともに、相手が “魔女” だけに、本当にだったら恐ろしいと思い、コップに鼻をつけて臭いを嗅ぐ(3枚目の写真、矢印は赤い液体)。

アメスフォーツ夫人は、「子供たちは ずっと前に散り散りになってしまった。夫はね、まあ、君は知らないだろう… ライフルで撃ち殺されたんだよ」と一人暮らしの悲しさを話すと、辛そうなトーマスの顔を見てこれではいけないと反省し、「元気を出して」と言うと、レコードをかけ、部屋の中がベートーベンの静かな曲で溢れる。それをうっとりと聞いている幸せそうな夫人は、イスに座ったまま宙に浮かんで行く〔トーマスの想像〕。最初、それに驚いたトーマスだが、自分もイスごと宙に浮き始めると、楽しくなる(1枚目の写真)。そして、好きになったエリサが頭に浮かぶ。それも、アムステルダムの中下流の人々が住む場所にいるエリサではなく、お城の前に停まった真っ白なロールスロイスの前にいるエリサだ(2枚目の写真)。因みにこの場所は、オランダから僅か1.5kmドイツに入った所にあるアンホルト水城(Wasserburg Anholt)。私が泊った時に撮った写真を3枚目に示す。音楽が終わり、我に返ったトーマスに、夫人が 「大人になったら、どんな人になりたい?」と訊くと、トーマスは 「幸せな人だよ」と、父に虐げられた現状からの脱出を夢見る。夫人は、「いい考えね。幸せがいつ始まるか知ってる? もう怖がらなくなった時よ(Weet je wanneer geluk begint? Als je niet meer bang bent.)」と、非常に重要なことを教える(4枚目の写真)AI  によれば、原作の冒頭の一文としてあまりにも有名な「幸せは、恐れるのをやめた時に始まる(Geluk begint met ophouden met bang zijn)」という一文が 映画では省略されているので、この夫人の言葉は、“映画の真髄” と捉えるべきだとか〕。そして、トーマスが帰る時に、「この本は、怖がることなく不正と戦った少年の物語よ」と言って 『エミールと探偵たち』を渡す。

トーマスが家に帰ると、隠れて待っていたマルホが トーマスを上の階に行かせずに引き留め、夫人についていろいろ質問する。2人が争っているうち、トーマスの体が、父と母が話している部屋のドアにぶつかる。その時、部屋の中では、父が 僅かなお金を母に渡し、「少しでも長持ちさせて使うように」と、経済的に困窮状態にあることを示唆する命令を下している。その時、マルホがドアを開ける。トーマスを見た父は、「どこに行ってた?」と訊く。「お隣」。「アメスフォーツ夫人の家か?」(1枚目の写真)。「荷物を運ぶの手伝ったんだ」。母:「偉いわね」。父:「彼女のトコには行って欲しくない。あれは共産主義者だ。ロシア人が来てキリスト教徒を奴隷化するのを待ち望んでる奴だ」と、嘘を並べ、さらに、トーマスが持っている本に目を付け、「今すぐ返して来い。あの女の気配がするだけでおぞましい」と命じる。トーマスは、本を自室に持って行ってこっそり読んでいると、母が入って来て、「アメスフォーツ夫人のご主人は、私たちの自由のために命を捧げたの。それに、アメスフォーツ夫人自身も、戦時中、多くの人々を救ったのよ。だから、会いに行ってもいいわ」と、父とは正反対のことを言う。「でも、父が…」。「お父さんにバレないようにね」。それを聞いたトーマスは、「ママ、幸せ?」と尋ねる(2枚目の写真)。母は、「もちろんよ。あなたが 私を幸せにしてくれるわ、小さな英雄さん」と答える。1人になったトーマスは、本に、「幸せは 怖がるのをやめることから始まる!(Geluk begint met niet meer bang zijn!)」と書く(3枚目の写真)。そう書いた後で、「魔女だったら、簡単にできるよな」と呟く。トーマスの窓からは、エリサの部屋がほぼ正面に見える。そこで、トーマスは、エリサに手紙を書き始める。「愛しいエリサへ。あなたは、靴のようにキーキー鳴る義足のせいで 自分が醜いと思っているかもしれません。でも、あなたは世界一美しいんです。いつの日か、あなたは宮殿に住み、ロールスロイスを持つでしょう。僕は、あなたのボーイフレンドになりたくて、これを書いてるわけじゃありません。そんなことは、できっこないと知ってます。だって… 僕… 9歳だから。もうすぐ10歳! 僕が、この手紙を書いてるのは…」。ここまで書いて、トーマスは、自分のことを、「バカ! 負け犬! ちくしょう!」と言い出す。すると、いつもの声が、「ねえ、素晴らしい手紙ね… 夢見る子のトーマチュ。これ、本心を書いたんでしょ? 素敵ね」と言う。イエスは、手紙を取り上げると 声を出して読み始める。トーマスは、必死になって手紙を取り返す。イエスは、「送るのを忘れないで。女の子は手紙が大好きなの。勇気出して、すべてうまく行くわよ」と励ます〔励まして欲しいと思ったから、空想の中で登場した。だから、こういうのは当たり前〕。翌朝、トーマスは、さっそくエルサの家のドア・ポストに、ラヴレターを入れる(4枚目の写真)。

キッチンのテーブルに座ったトーマスは、縫物をしている母に『エミールと探偵たち』を読み聞かせている。話が面白いので母が笑っていると、そこに、仕事から戻って来た父が〔父の職業は原作にも書いてないが、いつも背広姿なので、小さな会社の、役職にもつけない平社員であろう〕、「何を笑ってる?」と訊き、「ニシンも手に入れた」と、薄い紙包みを妻に渡す。その時、父は、目ざとく『エミールと探偵たち』に気付く。母が、「私が許可したの」と言うが、そんなことは無視し、父は本を取り上げる(1枚目の写真)。そして、「トーマス、今すぐ返して来い」と命じる。トーマスがキッチンから出てドアを閉めると、「お前、息子に、私の言うことなど聞く必要はないと言ったのか? どこから、そんなこと思いついた?」という非難の声が聞こえてくる。母の 「ただの 子供向けの本じゃないの」から口論が始まり、トーマスは本を返しに行く。そして、お隣に行くと、ドアベルのボタンを押す前に、魔女の家らしく、自然にドアが開く。トーマスは、恥ずかしいので、うつむいたまま本を返す。そして、食事の時間、父は、聖書を開け、読み上げる場所を探している。そして、先日の牧師が省略して話した『旧約聖書の出エジプト記』の8章1節から読み上げ始める。「主はモーセに言われた。『ファラオのもとへ戻って、私の民を解放するように言いなさい』『しかし、もし彼が拒否するなら、私は彼の領土を蛙で満たすだろう』『そしてナイル川は彼らで満ち溢れるだろう…』。まだ途中なのに〔戒律の厳しい解放派では、通常1章分を読むのが慣例(8章は32節まであるので10分はかかる)〕、ここで、マルホがいきなり、「アーメン」と言う(2枚目の写真) 。この言葉は、祈りの最後に言われる終止符なので〔「アーメン」と唱えられた瞬間に 神との対話が閉じられる〕、父は何も言えなくなる。トーマスと母は、びっくりして父がどうするか見ている。父は、しばらく、読みかけた姿勢のまま凍り付いたように動かない。そして、ニヤニヤした笑顔のマルホを睨む。すると、マルホは、笑顔のまま 「ニシン万歳! 大好きよ」と言うと、自分の皿からニシンの頭を手で掴むと、顔の高さにぶら下げて、身の方を口に入れて食べ始める。それを見た父は、何も言わずに聖書を閉じ、席を立って聖書を棚に置きに行く。母は、ニシンの皿を聖書の置いてあった場所に動かすと、3人揃って、ニシンを掲げて食べ始める(3枚目の写真)。これは、食前の父による祈りを無理矢理ショーカットしたマルホによる大胆な反抗だが、なぜか父は何も言わない。

翌日、トーマスはエリサからの返事を待ち焦がれ、自宅のドア・ポスト横の階段の一番下の段に座ってじっと待っている〔階段を登った上にトーマスの家がある。典型的な上階住戸(Bovenwoning)〕。すると、ポストから1通の封筒が投函され、床に落ちる。その音を聞いたトーマスは、走っていって封筒を拾うと、封筒の宛先も何も見ずに、そのまま外に走り出て、大きな木が等間隔に植えてある道路の反対側の野原を走り、その端まで行くと封筒を開け、中の手紙を取り出す。そして、期待して読んでみると、そこには、短く、「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です(Een man die zijn vrouw slaat, onteert zichzelf)」と書かれてあった(1枚目の写真)。エリサの手紙とは思えないので、封筒の宛先を見ると、「クロッパー氏へ」と書いてあり、次に封筒の裏を見ると、「アメスフォーツ夫人より」と書かれている。期待した手紙じゃなかったことに腹を立てたトーマスは、封筒をくしゃくしゃにして茂みの中に捨てるが、手紙に書いてあったことの重要性に気付くと、手紙だけ取り戻し、安全ピンを取り出すと、手紙を自分のシャツの裏側に張り付ける。トーマスが家の前まで戻ると、お向かい家の庭で 家族の年下の子供たちと遊んでいたエリサが寄って来て、「ねえ、トーマス。あなたの手紙ほど美しいもの、これまで読んだことがないわ。一生大切にするわね。あなたって、他の誰とも違うのよ… 分かってる? いつか私が宮殿で暮らすようになったら、いつでも訪ねてきてね。2人でロールスロイスを走らせましょう」と言うと、トーマスの頬にキスする(2枚目の写真)。トーマスはキスされて呆然とするが、突然現れたイエスが、手を叩いて成功を祝う。自室に戻ったトーマスに、机の後ろにあるベッドに横たわったイエスは、「君が恐怖を乗り越えたから、素晴らしいことが起きたんだ」と話す。トーマスは、「エリサ 待ってくれるかな… 僕が大人になるまで」と訊くと、イエスは空想の産物なので、当然トーマスが望んでいることを言ってくれる。「そう思うよ。若いってことはいいことだAI:大人になるまでたくさん時間があり、その間に人は望んだ方に成長できる〕」(3枚目の写真)。トーマスは、さらに、「彼女が、義足のベルトを外すのを見るのって怖い?」と訊くと、イエスは、「もっとひどいもの〔父の専横的な態度や暴行〕見てきたろ」と言う。この言葉は、トーマスが拾った「アメスフォーツ夫人の警告文と合わせて、次のシーンの推進力となる。

その日の夕食で、父は、『旧約聖書の出エジプト記』の7章を読み上げている。「…しかしファラオの心は頑ななままなので、主はモーセに杖で水を打たせるよう命じ、ナイル川の水を血に変えさせた。 川の魚は死に、川は悪臭を放った」〔これも、次のシーンのための脚本上の短縮版〕。ここで、トーマスが、「神様はどうやってファラオを説得するつもりなの?」〔こんなにひどいことをして、説得できるの?〕と質問する。それを聞いた父は、待ってましたとばかりに、「トーマス、とてもいい質問だ」と褒める。そして、「ファラオに説いて聞かせても無駄だったんだ。この強情者は、イスラエルの民を去らせることを〔貴重な労働力なので〕決して聞き入れようとしなかった(1枚目の写真)。だから神は、彼の心を和らげ、考えを改めさせるために、これらの災い(十の災厄)を下したのだ。これらの罰が、ファラオに己の非を悟らせた〔実際には、悟っていない〕。神は彼を正しい道へと導いたのだ〔実際には、神には導けず、ファラオは 一旦出国させようとしたイスラエルの民を阻止しようと大軍で追った〕」と、聖書の記述と矛盾したことを言うAI によれば、❶この矛盾こそが、父の異常性の証拠で、「父は聖書を正しく解釈せず、自分の暴力を正当化するために、聖書を自分に都合よく読み替えている、❷トーマスの「どうやって説得するの?」という問いに対して、彼は 「罰を与えれば人は正しくなる(=私がお前を叩くのも、お前を正しい道へ導くためだ)」というメッセージを込めて返答したが、これはこのシーンの最も不気味なポイント〕。先の父の説明の台詞の背後に映る映像は、途中から父の顔ではなく、水槽の熱帯魚に餌を与える父の姿と、餌を与えられた熱帯魚へと変わる。そして、トーマスが 「エジプトの災い」と呟く。翌日、トーマスはアメスフォーツ夫人の家に行くと、「あのね、ちょっと聞いてもいい? 変なこと言ってるって思われちゃうかもしれないけど」と言うAI: “飲むためではない” という罪悪感からむ無意識に出てしまった〕  。夫人は、「私も、変な質問 一つあるわよ」AI:トーマスをリラックスさせるための言葉で、特に何か訊きたいわけではない〕。「ランヤ〔赤いフルーツシロップ〕いただけます?」〔トーマスが、最初に訪れた時、夫人が出した飲み物〕〔ロシア語字幕では、「シロップいただけますか?」の訳となるので大問題となったが、オランダ語では「Mag ik wat ranja?」と言っていることが判明した〕。なお、赤いフルーツシロップでも、“糖分が多すぎる液体を狭い水槽に入れれば、水質が激変し、浸透圧の狂いや酸欠で魚は死ぬ” ので問題はない。ただ、そのことを9歳の子供が知っているハズがないことは確か〔この点について、AI が導いた推論に、私が「運河で熱帯魚が跳ねる空想にふけるような少年が、いくら父の熱帯魚だからといって、エジプトの災いに書いてあっても、殺すことは念頭になかったのでは」と主張すると、結局、❶トーマスは “災いの赤い水” だけを再現したかったのであり、“災厄の結末(魚の死)” までは望んでいなかった、❷結果的に魚を全滅させたことは、彼にとって耐え難い自己嫌悪の原因になった。という推論で一致した〕。トーマスは、瓶を受け取ると、「ありがとう」と言うが、夫人は、「家で叩かれているの、トーマス?」と訊く。これに対し、トーマスは即座に 「いいえ」と否定するAI によれば、夫人は、トーマスの「いいえ」が、実は「助けて」という叫びの裏返しであることをすべて理解していたと、分析している〕。そして、夫人は、「これ持って行って」と言い、『家なき子』を渡した上で、「あなたには家族がいて、よかったわね」と付け加える〔家で叩かれていると確信している夫人が、なぜ、この本を渡し、なぜ家族がいてよかったと言ったのか? この点についても、意見が AI と対立し、結局、本を渡したのは、❶「君は一人じゃない」というメッセージ(「世界には君と同じような苦しみの中にいても、強く生きている子がいるんだよ」)、❷トーマスに「父親の支配下にある自分」以外の世界があることを教えたかった、❸“災いの再現” ではなく、「物語という広い世界」に向いて欲しかった〕〔次に、「あなたには家族がいて、よかったわね」と言った理由は、❶トーマスの心の中にある 「よくないよ! あんな父なら いない方がいい!」という本音を、逆説的に引き出すための刺激、❷『家なき子』の主人公レミと対比し、「家族がいれば本当に幸せなのか?」「一人で生きるレミの方が、自由で幸せなのではないか?」という究極の問いを突きつけた〕。夫人は、そのあと、渡したシロップについて、「シロップの扱いには気をつけて。これはきつい代物だからね」と注意する〔この点に関して AI は、「丸ごと1本」という異常さへの反応: 夫人は「何に使うかは分からないけれど、これだけの量(しかも色の濃いもの)を一度に使うのは、何らかの大きな影響が出るはずだ」と直感し、大人として当然の危惧を口にしただけ、だと分析する〕。このシーン、実に奥が深いので、一語一語に解説が必要となる。自分の家に戻ったトーマスは、「エジプトの災いだ」と言うと、瓶の蓋を外すと、水槽の中に一気に流し込む(3枚目の写真)〔泳いでいるのは小さなソードテール〕

帰宅した父は、大事な熱帯魚の水槽が真っ赤になっているのを見て、「おお、わが神よ!」と言い、すぐに妻を呼ぶ。マルホは、「水が血に変わった」と言う(1枚目の写真、矢印)AI によれば、聖書の言葉を使うことで、「お父さん、あなたの家に神の災いが下ったわよ」と、父が最も恐れ、かつ重んじている世界観で挑発した〕。真っ赤な水槽を見た母は、「水を変えなくちゃ」と言い、トーマスに手伝わせようと呼ぶ。しかし、父は、「やめろ、触るんじゃない。そのままにしておけ」と命じるAI によれば、父は、このような “象徴的で不気味な悪戯” をする “動機と想像力” を持っているのはトーマスしかいないと断定し、❶魚の命や水槽の美しさよりも、トーマスに自分の過ちを直視させ、恐怖によって支配することへの優先と、❷母の慈悲によってトーマスの罪をうやむやにはさせまいとする冷酷な教育方針から、このような態度に出た〕。これを聞いたマルホは、笑ったあとで、「奇跡ね! アムステルダム・ザウトの奇跡だわ!」と言うAI によれば、マルホは、❶本来なら “恐ろしい災い” であるはずの現象を、わざと “奇跡” と呼び変えて皮肉り、❷上品で平穏なザウトという地区名を出すことで、父が誇る “まともな家庭” という仮面を剥ぎ取った〕。それを聞いた父は、「マルホ、ふざけるな。ファラオの時代にも、ナイル川を赤く染めることができた魔術師どもがいた。『神にできることは、我らにもできる』と、そいつらは不遜にも笑いおった」と諭すように言う。しかし、マルホは、「でも、その魔術師たちって、腕は良かったんでしょ」と言い返す。父は、「ああ、悪魔というのは、何だってできるからな」と逃げるように言う。その時、後ろから母が、「もしかしたら、何らかの病原体が水に入り込んだのかも」と口を挟む。父は、トーマスを見ながら、「病原体なら、今、この部屋の中にいる。人間のかたちをしたその病原体は、神の御力を愚弄しとる」と言う。マルホは、笑顔で 「おお怖」と楽しそうに、平気で父をバカにする〔父は、マルホには、何をされても怒らない。その理由を AI は、❶父が望んでいるのは、相手が “恐怖で震え上がること”。しかし、マルホに “滑稽な話” だと冷笑されたため、父の権威は一瞬で崩れ去った。ここで反論すればするほど自分が惨めになるため、父は沈黙して耐えるしかない、❷「アーメン」で遮り、「おお怖」と笑うマルホは、父が作り上げた “恐怖の王国” の外にいる。自分のルールが通じない相手を前にして、父はただ立ち尽くすことしかできない、と分析する〕。ここで、母が、危機に瀕した息子を救おうと、トーマスを呼びつけ、ホースを水槽に突っ込み、サイフォンの原理で水槽の赤い水を、床に置いたポリバケツに入れ始める(2枚目の写真、矢印)〔バケツが小さ過ぎるので、何度も交換する必要がある〕。それを見た父は、「今すぐ止めるんだ」と、妻に命令する。妻は、「いやよ」と反抗する。「3つ数える」。そして、「1」から始め「3」と言っても止めないので、妻の顔を引っ叩く。トーマスは、すべて自分のせいなので、父の腕をつかんで止めようとするが(3枚目の写真)、9歳の力では簡単に外され、父は抵抗する妻の顔を再度引っ叩き(4枚目の写真、矢印)、あまりの強さに妻は床に倒れる。その時、ドアのベルが鳴る。父はマルホに 「開けるな」と言うが、怒ったマルホはすぐに1階の玄関ドアのロックを外す〔もちろん、ボタン操作で〕。やばいと思った卑怯な父は、鼻血が落ちないよう妻に紙を渡し、上の階に行かせる。その時、ドアから入って1階の階段を登り始めたのは、父が一番嫌っている(来て欲しくない)アメスフォーツ夫人だった。夫人は、両家の部屋の一部が接近していて壁も薄いので、騒動が聞こえてきたため、トーマスを助けに駆け付けたのであろう。夫人が来たうわべの理由は、砂糖を分けてもらうため。父は、夫人に 「奥様はどこですか?」と訊かれると、「腹痛で」と下手な嘘を付く。夫人は、それが嘘で、“このロクデナシ” は奥さんをひどく殴ったに違いないと確信したので、「一度、じっくりお話しした方がよろしいようですね。よくお考えになって」と警告しAI に言わせると、「静かな宣戦布告」〕、トーマスに 「私の代わりに、ママに大きなキスをしてあげて」と言うと、父には 「砂糖をどうも」と言って出て行く。

父は、キッチンに入って行き、トーマスを叩く時の木のスプーンの前(偶然)に跪くと、「主よ、怒りに屈した私をお許し下さい。あなたのしもべを導いて下さい。どうかお願いです。主イエス・キリストの御名において、お願いします。妻と子供たちを失いたくありません」と祈る(1枚目の写真)AI によると、この祈りは、反省や悔い改めではなく、自らの暴力の正当化と家庭内での絶対的権威の維持が目的だとか〕。父の祈りが済んだ後で、トーマスが、「僕、上の部屋に行った方がいいですか? そこで(お仕置きを)待っていましょうか?」と訊くと、父は、「いや、トーマス。こっちへ来なさい」と、罰を免除したと暗に伝える〔「こっちへ来なさい」と言ったのは、AI によれば、原作では「幸福とは何か」についてトーマスを説教するため〕。しかし、トーマスは 「来なさい」という言葉を無視して、母のいる部屋に様子を見に行く原作では説教を聞く〕。そして、横を向いて寝ている母の肩に手を乗せる。すると、母は、「トーマス、あなたが助けたい気持ちは分かるけど、二度としないで。エジプトの災いは、もうしないで。いいわね」と言う(2枚目の写真、矢印は血)。「はい、ママ」。トーマスが水槽の所に戻ると、イエスが水槽を完全に空にし、内部の赤い液体も完全にぬぐい取ってくれている。この部分は、これまでと違い、極めて異常だ。なぜなら、イエスはトーマスの空想に過ぎないので、イエスが水槽を掃除などできないから。この場面の解釈は、①誰かが掃除した、②きれいになっていないのに、イエスがきれいにしたと空想で思い込んだ、の2つしかない〔当然、AI に原作ではどうなっているのかを尋ねた。結果として、❶母との会話の後、トーマスは自室に行く前に水槽の所に戻る、❷一方、父は、隣の食卓テーブルで聖書を読んでいる、❸トーマスは、ホースを使った母の方法で赤い水をバケツに流し込むが、トーマスが苦戦しても父は聖書から目を上げず、無視する、❹しかし、水槽が空に近づき、トーマスが水槽を傾けて完全に排水しようとすると、父は無言で立ち上がり、水槽の端を持ちあげる、❺そのあと、水槽を完全にきれいにするために、トーマスが水槽をキッチンの流し台に持って行こうとした時も、父は無言で水槽の片側を持ってキッチンまで運ぶ(水槽は、キッチンの流し台よりもずっと大きいので、そんな狭い場所では掃除できないが、そこは原作のミス)。だから、映画で、きれいになった水槽の脇にイエスがいるのは、実際には、トーマスが頑張ったお陰〕。イエスは、トーマスに、「父はとても厳しい人で、否応なしに、私をあの十字架に行かせたんだ。そして今、父はいなくなってしまった。奇妙なことに、どこにも見つからない。君が最後に叩かれてから消えたんだ」と話す(3枚目の写真)AI によれば、トーマスが、自分を縛り付けていた “神格化された父” という偶像を、自らの空想の力(イエスの口)を使って葬り去った重要な場面〕。それを聞いたトーマスは、「イエス・キリストありがとう」と礼を言う。

シャツが違うので別の日、トーマスが居間の窓から見ると、お向かいがとても騒がしいので、1階のドアまで下りて覗いてみる。すると、エリサの父が車のトランクから箱に入っていない中古のTVを取り出し、家に運んでいる。アンテナを手にしたエリサは、トーマスを見つけると、「見に来て」と呼ぶ。エリサの父は、TVを居間に置くと、隣の部屋の窓の近くで、小型アンテナをいろいろな高さと角度で試し、TVにちゃんと映像が入るようにする(1枚目の写真、矢印はアンテナ)〔アンテナのすぐ左にあるのは、1961年4月12日に打ち上げたボストーク1号によって生まれた典型的なスペース・エイジ・デザインの照明器具〕。居間では、母と4人の子供が、嬉しそうにTVを見る(2枚目の写真、矢印はTV、子供の1人は後ろにいて見えない)映画の設定の1961年の夏頃には、TVのブラウン管がこんなに丸くなく、もっと四角に近かった〕。そのあと、トーマスはエリサの部屋に連れて行かれる。最初はエリサがベッドの上で、トーマスは窓辺のイスに緊張して座っていたが、エリサが 「こっちに来て」と言ったので、エリサの隣に座る。トーマスは、思い切ってエリサの義足の革に触り、二人とも笑顔になる。

自室に戻ったトーマスは、正面に見えるエリサの窓を見ようとするが、イエスが邪魔をする。「邪魔しないでよ」。「赤面してるな」(2枚目の写真)。「やめて」。そこに、ノックなしでドアを開けて入って来た父が、「誰と話してたんだ?」と訊く〔当然、聞こえたのはトーマスの声だけ〕。その時、カメラが映す ドアの横の “磔にされたイエス” の絵に、イエスはいない〔あくまで、トーマスの目線〕 。父の声を聞き、トーマスはすぐに後ろを振り向き、「イエス様と」と答える。それを聞いた父は、壁の絵を見る。映像は、急いで絵に戻ろうとしたイエスが、間に合わなくて、十字架からかなり離れている(2枚目の写真、矢印)。しかし、この映像も、あくまでトーマスの目に見えたイエスなので、父の目には、当然、磔にされたイエス像が見えている。父は、トーマスが 「イエス様」という、普段は言わないことを口にしたので、イエス像を見ながら話を始める。「神とは、すなわち父でもあるのだ。その父は、自らのひとり子であるイエスを、彼を信じるすべての者を救うために十字架に差し出した。これこそが、神の愛の証明ではないか。お前も大きくなれば、私と同じように夫となり父親となる。そして、自分の妻や子供たちを “真実の道” へと導かねばならない。これは、主が父親の肩に課した重い責任なのだ。一家の主としての宿命なのだ。分かるか? そしてだな… もし、お母さんには訊きにくいような、男同士の話… “男の悩み” があるなら、何でも私に聞いて欲しい。そのために父親がいるのだからな」(3枚目の写真)。こうして、父は、男同士の親密な話しにみせかけ、聖書を “盾” にして自分の行為を正当化し、敵にまわったマルホからトーマスを切り離し、自分の配下に置こうとしようとする〔父を嫌っているトーマスが、こな計略にひっかかるハズがない〕

翌朝、トーマスは蛙の “ゲコゲコ” いう声で目が覚める。トーマスが机の上に乗って窓を開けて見下ろすと、家の前の道路は大きな蛙で溢れている(1枚目の写真)。これは、ナイル川を赤く染めて魚を全滅させた第一の災いに続く、『出エジプト記』における第二の災いだ。旧約聖書に書かれた内容は、「蛙の大群を発生させて国の端から端まで、蛙だらけにする。ナイル川は蛙であふれ、家の中まで跳び込んで来る。寝室もベッドも、家中蛙で足の踏み場もなくなる。かまどや粉をこねる鉢にまで入り込む。エジプトは蛙で埋め尽くされるだろう」というものなので、トーマスの空想は、さらに深刻化する。道路の蛙は、すべて、トーマスの家のドア・ポストから、群れをなして侵入する(2枚目の写真)。そして、トーマスが階段を下りて見に行くと、ドア・ポストから入った蛙の大群は、階段を登って2~3階にあるトーマスの家に向かう。そこで、トーマスは、蛙の大群の中に入って行き、両手を上げて、「僕の意志に従って! 来てくれたことは感謝する。でも、ここには入っちゃダメなんだ。ママが許さない。ママの言葉は法律なんだ。だから、自分たちの池や溝に戻って」と頼む(3枚目の写真)。すると、空想の蛙は一瞬にして消える。トーマスは、ドア・ポストを開けて、外に向かって、「わざわざ来てくれて ありがとう!」と叫ぶ。

すると、階段を下りてきたマルホが、ドア・ポストの前にしゃがみ込んで叫んでいるトーマスを見て、「そこで何してるの?」と声をかける(1枚目の写真)。「蛙がいたんだ」。「蛙?」。「でも、ママが許さなかった」。「何を?」。トーマスは階段を上がりながら、「エジプトの災い」と言う。水槽の赤化に続くトーマスの奇行を不安視したマルホは、自室に戻ったトーマスに続いて部屋に入ると、「あそこに、たくさん蛙がいたの?」と訊く。「何兆匹もね」。それを聞いたマルホは、「自制しないと、トーマス、正気を失わないよう努力して」と心配する。トーマスは、そんなことには構わず、「マルホ、“名誉を汚す” って、どういう意味?」と訊く。「それはね、誰かから “名誉” を奪うことよ」。「“名誉” って何?」。「“尊厳” のことよ」。トーマスは、さらに難しい言葉が出て来たので、一旦は 「“尊厳” って何?」と訊くが、姉は、真剣な顔から、笑顔になり、最後に笑い出す。トーマスは、隠しておいたアメスフォーツ夫人が父に送った 「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です」と書かれた紙を取り出して姉に見せる〔トーマスの「“尊厳” って何?」の質問の後に起きる大きな変化の理由が分からなかったので、AI に救いを求めた。❶マルホは、弟が「何兆匹の蛙」という過激な空想に耽っているのを見て、トーマスが精神的に壊れてしまうのではないかと本気で心配した、❷しかし、その直後のトーマスの反応は意外なもので、彼は言葉の意味の意味を、冷静かつ理性的につかみ取ろうとした、❸トーマスが「“尊厳” って何?」と訊いた時、マルホはこう気づいたはず… 『この子は狂っておかしくなっているんじゃない。この家で起きている暴力を言葉で理解して戦おうとしているんだ』と、❹あの “笑い” は、弟を狂人だと思って心配していた自分に対する苦笑いであり、同時に 『なんだ、トーマスはちゃんと地に足をつけて戦おうとしているのね』という強烈な安堵感からくる笑いだった、❺姉が笑顔のあと笑ったことで、トーマスは 『お姉ちゃんは、僕を “おかしい子” として見るのをやめて、“味方” だと思ってくれた』と確信し、“父と戦う武器” を姉に見せた。こんな鋭い分析は、私には到底無理。しかし、確かに筋は通っている〕〔この質問の際、 原作では、トーマスが 「“尊厳” って何?」と訊いた後、映画と違って、姉は 「それはね、自分を恥じないことよ」と答える。そして、笑いもしない。映画は、原作以上に劇的に演出している〕。手紙を読んだマルホは、「パパにこれを見せないと」と言うが(3枚目の写真、矢印は夫人が父に送った紙)、トーマスは 「パパ、すごく怒るよ」と一歩引く。しかし、マルホは 「構わないわよ」と、一歩も譲らない。

2人が、食卓でラジオを聞いていると、1階のドアが開く音が聞こえたので、2人は、急いでテーブルクロスを、今までで一番派手な柄のものに差し替えるAIの解釈は、次に2人がすることは、父を最も嫌がらせる行為なので、宣戦布告の意味を込めて、父が一番嫌いそうな柄を選んだ、というもの〕。父は、グッピーが入ったビニール袋を持って入って来ると 「ソードテールは売り切れだった」と言う。そして、トーマスを呼びつけ、グッピーの袋を渡し、水槽に入れさせる。水槽に放たれたグッピーを見て(1枚目の写真)、父は 「何て幸せそうなんだ」と、嬉しそうに言う(2枚目の写真)。父の、 “グッピーに対する顔=トーマスに対して一度も見せたことのない笑顔” を不快そうに見たトーマスは(3枚目の写真)、「だって、怖がらなくていいんだもん」と言う。それを耳に挟んだ父は、「トーマス、息子よ、人生は戦いなんだ。幸せなのは、弱虫と怠け者だけだ」と言うAI: “戦い” を放棄し、努力もせず快楽にふける者(=弱虫と怠け者)だけが、この世で安易な “幸せ” を享受できるのだという皮肉と蔑み〕。トーマスは、「グッピーはなぜ幸せなの?」と訊く。「グッピーは働かなくていい。天与の糧が与えられるからな」と言う。それを聞いた、トーマスは、「もう行っていい?」と、初めて父の話を遮り、マルホの方に行くAI: 「人生は戦いなんだ」と言った父に対し、トーマスは父とは全く違う形の「恐怖に屈しないという戦い」を、水槽の前で静かに開始した〕

夕食が始まり、父が肉のブロックから自分の分を包丁で切り取っていると、マルホは 「その包丁って、カミソリみたいなんでしょ」と尋ねる。「ああ、年取った牛の皮だってはげるぞ。なまくらな包丁は嫌いなんだ」。その時、1階のドアのベルが鳴る。トーマスが開けに行き、「やあ、ピー叔母さん」と言うと、「今日は、可愛い坊や」と言った後で、父〔義兄〕に対し、「何てことなの! あなたの弟が、私を殴ったのよ! なんでだと思う?」と言うと。スボンを見せる。父は、トーマスとマルホを上の階に行かせようとするが、叔母は、「ダメダメ、みんなに知ってもらわないと」と義兄の命令を却下し、2人に、「あんたたちのベン叔父さんが、ピー叔母さんを殴ったのよ。遂に正気を失ったのかしら?」と言う。いつも平気で妻を叩いている父は、子供たちの前で非常に不味いことを言い始めたので、何とか止めさせようと、「ピー、座って」と言うが、そんな言葉に耳を貸すような叔母ではない。「あなた兄なんだから、こんなこと許されないんだって 言ってやってよ。でないと、私、玄関のポーチにポスター持って立ってやるから… 『クロッパー氏は、妻がズボンを履いてるから殴ります』ってね」。それを聞いた父は、本性を現わす。「ピー、男には、妻と子を導く義務がある。そして、従わなかったなら…」。「殴る?」。「厳しくする」〔いつも殴っていることがバレると困るので、直接的表現を回避した〕「主はそう命じられた。妻はスカートを、男たちはズボンを履かねばならぬとも。もし、あんたが神の戒めに逆らうなら、あんたの夫には権利が、いや義務があるんだ!」。それを聞いた叔母は、「なるほど、あんた、ただの役立たずだったのね。一つだけ言っておくわ。もし彼がまた私に触れたら、私は彼と別れてやる。そして、二度と会わない。これからは、ズボン以外は履かない」と宣言し、義兄にズボンを履いた足を上げて見せる(1枚目の写真、矢印)〔母より、よほど自立心と暴力に対する憎しみが強い〕。叔母は、ここで、父にとって非常に困ったことを母に訊く。「ところで、鼻どうしたの? 神様の戒めに背いたんじゃないわよね?」(2枚目の写真、矢印)。「夫に引っ叩かれたの」とは言えないので、母は、「つまずいちゃった…」と嘘を付く。母に対する父の暴力を許せないマルホは、「水槽よね。違ってた?」と、じっと父を見ながら、痛烈な批判を込めて言う。それを聞いた叔母は、義兄の暴力による傷だと知りつつ、マルホの批判に相乗りする形で、「そうね、水槽ってホントに恐ろしいわね。私も時々ぶつかるのよ… 特に鼻で」と言うと、義兄に向かって、「あんたって、弟と同じで臆病者ね」と貶すと、「さあ、そろそろ、信心ぶってるくせに暴力をふるう旦那のトコに帰らなきゃ。でも、彼にはたっぷり教えてやるよ。つけ上がるなって!」と言い、最後に母の肩に手を置くと、じっと顔を見つめながら、「そう思うでしょ?」と、自立を促す。叔母は、そのまま出て行くと思わせ、義兄の前まで来ると、吸っていたタバコの火を、皿の肉の真ん中に何度も押し付けて消し(3枚目の写真、矢印)、ドアをバタンと閉めて出て行く。

食後の祈りが始まるので、トーマスは、急いでアメスフォーツ夫人の手紙を聖書に見えるように挟む(1枚目の写真、矢印)。聖書を食卓の上に移した父は、すぐに “挟んである紙” に気付く(2枚目の写真、矢印)。そして、「これは、誰が入れたんだ?」と訊き、返事がないので、全員をイスに座らせ、紙を開いて読み上げる。「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です」(3枚目の写真、矢印)。マルホは、小さなスプーンを手に持って垂直に立てると、スプーンのえじり〔棒の先端〕でテーブルをトントンと叩きながら歌うように口ずさみ始める。父は、「マルホ、やめろ」と命じる。そして、「誰が、これを聖書に入れた?」と再度訊く。返事がないので、「誰かが私たちを分裂させ、神に敵対させようとしている。近頃は、そういう時代なんだ」と言うと、「誰だ?」と3度目に訊く。今度も返事はない。「誰もおらん?  神から隠れることなどできん」。そして、手を合わせると 祈り始める。「全能の神よ、私たちの苦難をご覧になり、この世の誘惑から家族を守り、強めて下さい」。

祈り終わると、4度目の 「誰だ?」。マルホが 「私」と言うと、父は 「信じられん。これは お前の字じゃない」と言う。「道路に落ちてたの」。今度は母が 「私がやった」と言うと、母がまた叩かれると心配したトーマスが、「違う、僕がやった」と言う(1枚目の写真)。「嘘をつくな」。トーマスは、安全ピンで紙をシャツの裏に張り付けた時の穴を見せ、次に安全ピンを取り出し、穴の位置と針の位置が一致すると主張する。両方を受け取った父は、両者が一致することを確認する。父は、「お前は嘘をつかなかった。私が間違ってた。許せ」と疑ったことを謝る偽善性を見せた上で、「お前を父に敵対させたのは誰だ? ピー叔母さんか?」と訊く。トーマスは、「言わないよ」と拒否する。「トーマス、誰が書いたか言え」。「言わない」。しばらく、どうするか考えた父は、「木のスプーンを持って上へ行け」と命じる。いつもなら、従順に従うトーマスだが、「行かない」と拒否する(2枚目の写真)。「何だと?」。「行かない」。それを見ていた母は、「私の小さな英雄は、ここに留まります」と、トーマスを初めて「英雄」と呼び、夫の暴力から息子を物理的に守る意志を初めてはっきりと示す(3枚目の写真)。そして、「あなたは、聖書を読んでいればいいでしょう」と、聖書を盾にして暴力で支配しようとする夫の偽善を強く批判する。この “反乱” に激怒した夫は、立ち上がると、妻を引っ叩こうと腕を伸ばす(4枚目の写真、上の矢印は父の手、下の矢印はマルホの手)。

父が母を叩く前に、父の “カミソリのような包丁” を手に入れたマルホは、その包丁の切っ先を父に向ける(1枚目の写真)。そして、「二度と手を出すな!」と強く命じる。それに対し、ずっと夫の支配下で “共依存に近い状態” にあった妻は、「マルホ、ナイフをしまって!」と言うが、マルホは、母には 「ママとトーマスは神様を怖れなくていい。2人とも大丈夫」と言い、次いで父に向かって、「あんたは違う。私がやらない〔刺さない〕とでも思ってる? 私はあんたみたいになったのよ… 今、すごく怒ってる」(2枚目の写真)「あんたが誰に祈ろうが、そんなことどうだっていい。でも、これからは。あんたには 誰一人、二度と殴らせたりしない!」と怒鳴るように言う(3枚目の写真)。ここで、ようやくマルホは、包丁を父の首から離す。そして、「あんたは、悪いことだと知ってたのに、それでも続けた。近所の人にバレなきゃいい、それしか考えていなかった」と最後を〆るAI によれば、家の中で暴力を振るいながら、外では聖人のように振る舞う父の “世間体” への執着を、「あんたが一番怖がっているのは神様じゃなくて、近所の噂話でしょ」と見透かして、その卑怯さを笑ったもの〕。面目が丸つぶれになった父は、「出て行く」と言い、すっといなくなる〔ショックは受けても、反省した様子はゼロ〕。夫はいなくなると、母は 「あなた、なんてことをしたの」と、非難するような発言をするが〔①夫に引っ叩かれるのを救ってもらったのに、②その前には、ピー叔母から「そう思うでしょ?」と、自立を促されたのに、何たる情けない母だろう〕、マルホに、泣きながら、「私が終止符を打ったのよ。それとも、このままあいつに殴られ続ける方が良かったっていうの?」と言われると、母も ようやく目が覚め、マルホを抱き締めて 「本当にごめんなさい」と謝る(4枚目の写真)。一方、トーマスは、窓を開け放ち、父が支配してきた、重苦しく宗教的な書斎の空気を追い出すAI によれば、窓を開けることは、恐怖からの解放、言葉を変えれば、「もう閉じ込められて怯える必要はない」という確信を象徴している〕〔それと、もう一つ驚いたことは、この映画のクライマックスとも言える、マルホによる包丁を使った威嚇は、原作にはないという点。「原作の持つ “「静かな抵抗” という精神性を壊さずに、映像としてこれ以上ないほど “権威が失墜する瞬間” を包丁一本で描き 出した脚色は、実に見事な “映画的昇華” だと、 AI も私の意見に同意してくれた〕。一方、父は、逃げ出しのではなく、その夜遅く、近所が寝静まってから、こっそり家に戻ってくる。心配した妻が待っていてくれたのに、ありがとうとも言わず、「もう寝る」とだけ言って、勝手に寝てしまう。この男には、もう一段の強烈な教訓が必要だ。

翌朝、トーマスは、アメスフォーツ夫人の家で楽しそうに話し合っている(1枚目の写真)。夫人はトーマスにヨーデルを歌わせ、「音楽は楽しめばいいの。森は森、海は海で、美しいように」と教えるAI によれば、夫人は 「恐怖や暴力に支配された日常からの解放がそこにあるの。楽しく美しく存在しているだけで、愛(め)でる価値があるのよ。あなたが感じたままの楽しさ美しさを信じて、自由に生きなさい」と言っている〕。トーマスは、夫人が言った「海」を、自分の経験と照らし合わそうと、「僕たち、ザントフォーツに行ったことがあるよ」〔アムステルダムの約25km西にある海辺のリゾート、トーマスにとって父の暴力や宗教的な抑圧から、唯一逃れられた自由な場所〕「ザント〔砂〕… フォーツ〔浅瀬〕から付けたのかな?」と夫人に訊くと、「言葉の意味なんか考えないで。楽しく幸せだった思い出が大切なの」と諭すAI によれば、この対話を通じて、トーマスは  「怖がるのをやめれば、世界は美しく楽しくなる」という確信を深める〕。そして、さっそく、「なにもかも祝うパーティー」と書いた招待状を作る(2枚目の写真)〔下の黒い字は、「8月17日(金)午後7時」〕〔絵は、ザントフォーツの砂浜と打ち寄せる波〕映画の場面は8月17日の午後7時近くに変わる。父が食後の食卓で『出エジプト記』の第40章33-34節を読み上げていると、父以外の3人がドアの方を向く(3枚目の写真、矢印は聖書)。

母は、「ごめんなさい、あなた。急いで片付けないと」と言って席を立ち、マルホも片付け始める。父が、「何事だ?」と訊くと、トーマスが皿をキッチンに運びながら、「お客さんが来るから」と答える。「客って誰だ?」。「ピー叔母さん」(1枚目の写真)。母は、夫に、「テーブルを脇にどけて、イスを並べてください」と頼む。「ピー叔母一人のために?」。「まだ他にも見えます。お着替えになります?」。「なんで、今まで黙ってたんだ?」。マルホが、「ごめん。忘れてた」と言い、トーマスが、「パパも招待されてるよ」と言って、招待状の入った封筒を渡す。父が受け取って中を見ようとすると、ドアのベルが鳴る。そこで、父がドアを開けに行くと、最も嫌いなアメスフォーツ夫人が最初に入って来て、2番目がピー叔母(2枚目の写真)。夫人は、ムッとした顔の父に向かって 「トーマスが、私たちを “幸せな人々の会” に入れてくれたの」と言い、「あなたも招待されたんですか?」と疑わし気に訊く。「何の会ですって?」。すると、次から次へと入って来た女性の一人が、「すべて、そこに書いてありますよ、クロッパーさん」と言い、招待してくれたトーマスに感謝のキスをする。父は、ようやく封筒を開き、中の招待状を見る。居間では、邪魔な聖書をどけようとした夫人から、父が大切そうに聖書を受け取る。居間は、招待された女性たちで一杯になり、聖書を手にした父の存在は “異様” でしかない(3枚目の写真、矢印)。

マルホはレコードをかけ、イエスも踊り始め、エリスも笑顔になる(1枚目の写真)。父は、マルホに向かって、「少し静かにせんか… 近所に聞こえるぞ」と注意するが(2枚目の写真。矢印はレコード)、マルホは、「みんな、ここにいるわ」と、無視。その際の父の顔を見たイエスは、トーマスに、「恐怖がファラオを襲った」と、父の心情をファラオに例える(3枚目の写真)〔イエスはトーマスの空想なので、トーマスがそう思った〕

そして、ここからが、AI に教えてもらって気付いた、この映画の脚本の最悪の失敗箇所2つのうちの1つ目。トーマスによる詩の朗読だ(1枚目の写真)。「『なにもかも書いた本』を書くのはたやすい。けど、それを読み返すのは辛い。僕は机に向かって静かに座り、書いては、窓の外を眺める。紙は言葉で溢れ、詩ができあがった。幸せであることは、誰にとってもいいことだ。僕も 楽しくて面白いことに、すっかり慣れてきた… ハンプティ・ダンプティの悲運。みんな踊ってる。タンプティ・ダム、タンプティ・ダム。たくさんのタンプティ・ダム、幸せな僕」〔この詩には、何の意味もない。原作ではどうなっているのか。AI がすべて克明に教えてくれた。①パーティーは家の中ではなく、庭で行われた、②父は招待状を渡されたが、招待を拒絶し、家の中に留まった、③女性だけでなく男性も招かれた、④レコードはかけず、音楽家が演奏した、⑤会の名前は、「幸せな人々の会」のような単純なものではなく、「もはや何ものも恐れない人々の会(vereniging van mensen die nergens meer bang voor zijn)」だった、❻トーマスの詩の中の神に関する部分の一部: 「父は、僕たちの家を、神様という名の檻に変えた。父は、僕たちが笑うと神様が悲しむと言う。でも、それは嘘だ。神様が悲しんでいるんじゃなくて、父が僕たちの幸せを我慢できないだけだ。父は神様の後ろに隠れて、僕たちを怖がらせている臆病者だ。父は、僕たちが悪い子だからエジプトの災いが来ると言った。でも、僕が見た蛙は、父の罰なんかじゃない、僕を笑わせただけの、ただの生き物だった。父は、世界を怖がらせるために神様を使っているだけだ」、➐トーマスの詩の中の暴力に関する部分の一部: 「僕は毎日、父の拳が振り下ろされる音を待って生きてきた。それが僕の世界のすべてだった。父はいつも怒鳴っている。父の手はいつも僕たちを叩く準備ができている。父は、ママを自分の持ち物だと思っている。でも、ママは父のものじゃない。父はただ、自分より弱い人を叩くのが好きなだけなんだ。父は、ママの顔を叩く。父は、僕たちが泣くと、もっと強く叩く。父は、神様がそうしろと言っていると話すけど、それは嘘だ。自分が怒ってるだけなんだ」、⑧父は、家の中にいたが、庭にいるトーマスの声はすべて聞いた。⓵~⑧の中で、特に、❻と➐が重要で、大勢の人の前で父の行為が暴露された結果、当時(原作の舞台は1951年)の社会の厳格なコミュニティにおいて、父親の社会的地位や “敬虔な信徒” という仮面は完全に剥ぎ取られ、再起不能なまでの軽蔑の対象に貶められた。これは “社会的な死” に相当する〕。この最重要な箇所を、映画では、何の意味もない子供の詩に替えたことで、父は何の罰も受けず、原作とは100%反対の結末を迎える。2004年に出版された同名原作は、翌2005年に、ゴールデン・ペンシル賞〔オランダで最も優れた児童文学に贈られる最高の賞〕と、ゴールデン・オウル賞〔ベルギーのオランダ語圏で最も権威ある文学賞(青少年文学部門)の一つ〕を受賞した名作だが、映画はその名作の意図を完全に破壊したことになる。監督と脚本家の責任は重大で、恥ずべき改変だ。映画では、そのあと、母が、ディーン・マーティンの「That's Amore(ザッツ・アモーレ)」を歌い始める(2枚目の写真)〔この点に関して AI に訊くと、①この歌は、“ピザパイのように月が大きく見えたら、それがアモーレ(愛)だ”、“星が輝いて見えたら、それがアモーレだ” と、世界がバラ色に見える “恋の陶酔” を歌ったもの、②暴力の根本的な解決(離婚や自立した生活基盤の構築)を語らずに「これが愛なのよ!」と歌うのは、あまりに無責任、③原作のトーマスは、パーティーで「父という巨人を言葉で処刑する」という、人生最大の勇気を振り絞ったのに、映画は、その重苦しいプロセスをすべて “楽しい音楽” というエンターテインメントにすり替えてしまった、と」厳しく分析する〕。父は、ドアの後ろから妻の歌う姿を見ている(3枚目の写真)〔これに関する AI の分析は、①父にとって、妻が歌うディーン・マーティンのような世俗的な歌は、理解の範疇を超えた騒音であり罪そのもの、②かつては、自分が一喝すれば静まり返っていた家族が、今は自分の目の前で堂々と歌っている、③父は、「私は変わらない。変わったのは、悪魔にたぶらかされたお前たちだ」と思っている、という鋭い内容〕

イエスは、円満な結果をみて、「また会おう、トーマス。君は、私の一番の友だ」と、別れの言葉を言う。トーマスは、「天使たちに、よろしくって言ってね」と頼む(1枚目の写真)。イエスは、「もちろんだよ」と言うと、天に向かって飛んで行く(2枚目の写真、矢印)〔問題が解決したので、トーマスには、空想のイエスはもう必要ない〕。上界に戻ったイエスに、天使たちは、「ところで、トーマスはどう?」と尋ねる。「元気だよ」。「すぐにでも、連れて来てくれる?」。「すぐじゃないな。それに、君たちには、チャンスはないね」。「なぜ?」。「靴みたいに軋む脚じゃないだろ」(3枚目の写真)。原作では、映画のラスト近くでイエスは登場しない。これは、あくまで、次のトーマスとエリサのシーンにつなげるための懸け橋にすぎない。ただ、トーマスの空想は、イエスと別れた時に途切れたはずで、上界でのイエスと天使たちの会話は、トーマスの空想の域を超えている。つまり、物語としての整合性が崩れてしまっている。従って、これも、脚本の大きなミス。

トーマスの家でのパーティーは、トーマスとエリサが踊るシーンで絶好調に達する(1枚目の写真)。しかし、このシーンも原作にはない。それは、原作が、パーティーはあくまで「戦場」、すなわち、父が家の中で聞き耳を立てる緊迫感の中で、トーマスが言葉という武器で父を倒す場だからだ(AI)。映画が2人のダンスをクライマックスに据えたのは、原作の本質から逃げ、「トーマスとエリサの恋物語」にしてしまったからに過ぎない。このような姿勢は、厳しさからの逃避、原作を知らない人に受けるため、としか思えない。パーティーが盛り上がる中、父は、耐えきれずに家から外に出てしまう(2枚目の写真)原作では、ずっと家の中〕。パーティーが終わり、自室に戻ったトーマスは、今まで白紙だった本扉に、「なにもかも書いた本」と題名を書く(3枚目の写真)。そして、映画は(恐ろしいことに)ここで終わる。これが、先に、「この映画の脚本の最悪の失敗2つ」と書いた、2つ目の大失敗。原作では、この後、本に、「大人になったら、僕は幸せになるんだ(Later word ik gelukkig)」と書き加え、物語を終える。これは、パーティーで実施した朗読によって父に対するクーデターを起こし、それが完璧に成功したことを終えて、事後報告として本に追記したもの〔これは、AIに教えてもらったことだが、通常は「後で」を意味する「Later」を、「大人になったら」と訳したのは、「オランダ語の Later は、子供が使う文脈では「(今ではない)将来」「大人になった時」を指す決まり文句(Als ik later groot ben... / 大きくなったら…)として使われることが多いため、多くの翻訳では「大人になったら」と意訳されるだとか〕〔しかし、私は、もうクーデターで父を完膚なきまでにやっつけた後なのに、なぜ、「大人になったら」と、幸せになるのが “今すぐ” ではなく未来なのか不思議に思って AI にその点を訊いてみた。AI は、「トーマスが敢えて 「大人になったら」と書いたのは、彼が置かれた「過酷な現実の残滓」が関係している(パーティーで父を辱め、精神的な勝利は収めたが、トーマスは依然として「父と同じ屋根の下」に住む子供で、経済的な自立も、物理的な離別もまだ果たせていない。今の勝利は「解放」ではあっても、社会の中で役立ち、認められるという「完成された幸福」のスタートラインに過ぎない。彼は「今この瞬間、父を倒した」という事実に加え、その勝利が将来の幸福を100%保証するものであるという確信を、未来への予約として記録に刻みたかったのだと考えられる)」と回答した〕〔そこで、原作のオランダ語とは違うが、「今日、僕は幸せへの道を歩み始めた」ならどうかと訊いたら、「①父へのクーデターに成功した「今日」という日を起点にし、そこから未来へ続く道が開けたという客観的事実を的確に表現している(感情的な「満足」ではなく、人生の「進捗」を記録する姿勢)、②「歩み始めた」という言葉には、一歩一歩自らの足で進むという責任感が宿っている(棚ぼたの幸福を待つのではなく、自分の力で距離を稼いでいくという決意が感じられる)ので、「まさにそれこそが、客観的事実に基づいた「完璧な記録」の言葉!」との賛同を得た〕〔何れにせよ。映画の終わり方について、AI は、映画 が「本のタイトル」だけを書いたのは、いわば「白紙のままの地図」を眺めているようなもので、トーマスが今日の経験を本に書いたことで、「地図」に最初の一歩を刻み、目的地に向かってコンパスを合わせたことを初めて書いた重要な言葉だと主張する〕。だから、この一文がないと物語は完結せず、従って 映画の脚本は最悪。 ◆いくら文脈が変わっても、例えば、「今日は楽しかった。でも、父は怒ってた。もし、また母さんや僕を叩いたら、次のパーティーで全部バラしてやるんだ」とでも、本に追記する場面を付けていれば、原作の精神をある程度引き継いだ作品になったであろうに。

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