オランダ (2024)
オランダを代表する児童文学作家フース・カイヤー(Guus Kuijer)が2004年に出版した同名原作を映画化した作品。原作は、金の石筆賞(Gouden Griffel)と金のフクロウ賞(Gouden Uil)の青少年文学部門を受賞している。1951年を舞台に、極めて厳格で宗教の熱烈な信者で 妻子に君臨する父を持つ9歳の少年トーマスの物語。トーマスの母は、事あるごとに頬を引っ叩かれ、それでも反抗せずに完全に夫の言いなりになっている。16歳の姉のマルホは、反抗期の真っ最中で、母に対する暴行を見て、何とか父を懲らしめようと画策している。9歳のトーマスはまだ小さく、時折、父に大きな木のスプーンで裸の尻を涙が出るほど叩かれるので、おとなしくしているが、夢の中でイエスに助けを求め、自分が遭遇した出来事を本に書き綴ることで憂さを晴らそうとする。そして、7歳の年上の、“革で覆われた木の義足の少女” に恋をし、“隣に住む魔女のような老婆” と親しくなり、“僕は将来、幸せになる” と思いながら毎日を送っている。父が、食前食後の祈りで、旧約聖書のエジプトの災いを話し始めた時、それがヒントとなり、小さいながら思い切ったことを成し遂げる。それが、この児童文学が高く評価された所以。映画は、この原作を90%以上 正確に映像化して、観る者に慟哭と感銘、さらには、満足感を与えてくれる。なお、フース・カイヤーは、2012年にスウェーデン芸術評議会から児童文学に対する世界の最高賞の一つ、アストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞している。
最初、この映画を紹介する時、ちょうどGoogle検索がAIモードを始めた時に遭遇し、試しにAIをフルに活用した結果、AIがこれほど悪質な嘘付きだとは知らずに映画を紹介してしまい、評価を貶めてしまった。そこで、AIが如何に危険な存在かを実際に体験できる良い機会にもなると思い、(AI捏造)版を残した上で、過去にとらわれず、一から出直す形で映画を再紹介することにした。
この映画の主人公のトーマスを演じたのはブランドン・リファー・クーネ(Brandon River Coene)。2007年8月30日生まれ。映画の撮影が公開1年前の2023年とすれば撮影時16歳となるが、それでは9歳は演じられない。余程、撮影が古いのだろうか? 彼は、2022年からTVに出演し、現在もTVで活躍しているが、映画への出演はこれ1本のみ。このサイトは少年俳優に関するものだが、この映画に限れば、トーマスよりも、姉のマルホを演じたアイコ・ベインスタブーア(Aiko Beemsterboer)の方が、出番は少ないが遥かに魅力的で存在感があった。彼女は、2003年2月8日生まれなので、年齢差は4歳。映画の年齢差の7歳のほぼ半分。出演数、その内容(TVより映画の方が多い)ともブランドンを上回るので、演技がトーマスよりも巧みなのは、そのせいであろう。はっきり言って、ブランドンのような “下手くそでブスな子役” を使わなかったら、この映画の「受賞3、ノミネート11」も、もっと良くなっていたかもしれない。
あらすじ
1961年のアムステルダムのザウト〔Zuid、南〕地区にあるテラスハウス〔一戸建て感覚の集合住宅〕が舞台。原作では、アムステルダムの中心部の南南西約3kmにあるヤン・ファン・エイク通り〔Jan van Eyckstraat〕と明記されている(すぐ北にノールデル・アムステル運河〔Noorder Amstelkanaal〕が東西に通っている)。ただし、映画のように、通りの上にゲートハウスはない〔ロケ地は、ラトビアのリガ〕。9歳になるトーマスは、1冊の白紙の本を取り出し、表紙をめくった本扉にどんな題名を書こうか考えたが(1枚目の写真、矢印は題名を書く場所)、いい案が思いつかないので、次のページをめくり、ペンをインクボトルに入れる。原作では、本の題名はすでに決まっている。彼はペンを手に取り、こう書き記した。「雹が激しく降り注ぎ、木の葉が弾き飛ばされた。それは実際に起きたことだ。1951年の夏、私が9歳の時、ヤン・ファン・エイク通りにて」。彼は考え事をしようと窓の外を眺めた…そして彼はこう書いた。「いつか、僕は幸せになる」。場面は変わり、小部屋に置いてある熱帯魚の水槽越しに、食卓に座っている一家4人が映る(2枚目の写真)。食卓では、父が 肉切り包丁を何度も “研ぎ棒” に擦り付けて研いでいる。トーマスが、相手を特定せずに、「本って何について書いてあるんだろう?」と訊く(3枚目の写真)〔原作と同じ、もしくは、ほぼ同じ台詞は青色で表示する〕。16歳の姉マルホが 「恋愛とかね。でも、君にはまだ早すぎるよ」と言い、トーマスは 意地悪な返事に舌を出す。

父は、レアに近いミディアム・レアに焼かれたステーキを、研いだ肉切り包丁で半分に切り、それを自分の皿に乗せる(1枚目の写真、黄色の点線は、切り取った肉)。この行為に対し、原作には、「父は肉を切り分け、自分には一番大きな切れ端を取った。事務所で誰よりも働かなければならないからだ」と書いてある。父は、トーマスの質問に対し「大切な本は すべて神について書かれている」と言う。父は、俎板に残った半分を、妻とマルホとトーマス用に三等分する〔何という不平等!〕。母は、「でも、愛についても書いてあるわ」〔原作では、「本は、愛と神について書いてあるわ」〕と、トーマス見てほほ笑む。この意見に反発した父は、「この家で本を読むのは誰だ?」と訊く。3人は黙り込むが、母は沈黙を長く続けたくないので 「あなた」と答える。父はさらに、「じゃあ、本の内容を知っているのはどっちだ? お前か、私か?」と訊きながら、3つに切り分けた小さなステーキを、マルホの前を通り越して、妻の横に置く(2枚目の写真、3人用に番号をつけておいた)〔非常に少ない量〕。「あなた」。ここで、反抗期に入ったマルホが、「お母さんの料理の本」と言って笑うが、母もトーマスも怖くて笑わない(3枚目の写真、矢印は、3人用のステーキ)。原作では、マルホは何も言わない。「将来、僕は幸せになれる」とトーマスは思ったが、口には出さなかった。彼は母の方を見ると、彼女が悲しんでいるのがわかった。立ち上がって彼女を抱きしめたいと思ったが、それはできなかった。なぜかはわからなかったが、どうしてもできなかったのだ。彼は椅子に固まったまま座り続けた… と書かれている。

日曜の朝、黒ずくめの服装に着替えた一家4人は、カルヴァン派のオランダ改革派教会(解放派、vrijgemaakt)に出かける(1枚目の写真、矢印はスカーフ)。原作には、母は帽子をかぶり、マルホはスカーフを巻いていた。教会がそう命じていたからだ。女性の髪型を見せることは許されなかった… と書かれている。この解放派は、カルヴァン派(1961年頃のオランダの人口の40~45%を占めていた)の中で、1944年の「解放(Vrijmaking)」という教会分裂によって生まれた過激派で、「自分たちの教会だけが唯一の真の教会であり、他はすべて偽りである」と強く信じていて、他のカルヴァン派と交流を絶ち、極めて閉鎖的なコミュニティを形成していた。映画の中で父が聖書を武器に家族を支配し、体罰を正当化する背景には、この教派の極端な家父長制的な解釈がある。父は、神聖な日曜日に引っ越してきたお向かいさんの一家を見て、「罪深き者ども!」と貶す。一方、一番後方にいたトーマスは、トラックの助手席から下りて来た “革で覆われた義足を装着した年上の少女” をじっと見ている(2枚目の写真)。父が、「トーマス、行くぞ!」と叱り、トーマスは走って追いつく(3枚目の写真、右の矢印は義足のエリシャ、左の矢印はゲートハウスの下のトーマス)。原作には、エリシャはマルホと同じクラスで、角を曲がったところに住んでいた… と書かれているので、①引っ越して来たわけでもないし、②トーマスの部屋の真向かいに住んでもいない。

1枚目の写真は、一家の服装が如何に違和感のあるものかを示す良い一例。黒ずくめの16歳と9歳が歩いて教会に向かい、それを自転車に乗ってテニスに行く青年が追い越して行きながら、お互いに見合う。なお、画面の下には、「グース・カイヤー著『すべてを書いた本』(Em. Querido's Uitgeverij刊)を原作とする」と書かれている。なお、原作には、日曜日になると、彼らは教会へ行った。近所の普通の教会ではなく、遠くにある特別な教会まで… 彼らは歩いて行った。なぜなら、神は日曜日に路面電車が走るのを望んでいなかったからだ。トーマスは路面電車の存在を、ただ頭の中から消し去った。禁止されているすべてのものを消したのだ。路面電車、自動車、自転車、そして通りでサッカーをしている少年たち。鳥たちだけは残しておいてもよかった。彼らは今日が日曜日だなんて知らなかったからだ。鳥には魂がないから… と書かれている。一家が、運河沿いに歩いていると、トーマスの目には、熱帯魚が飛び跳ねるのが見える(2枚目の写真、矢印)。「運河にメキシコプラティ(熱帯魚)がいるよ!」と、走って行って母に報告すると、マルホは「幼児期の幻覚」とバカにし、トーマスは「救いようのないバカ」と反撃。熱帯魚がまた跳ねたので「一緒に泳いでるよ」と言うと、今度は父から、「トーマス、嘘をつくな」と叱られる。熱帯魚について、原作には、一週間もの間、あまりにも猛暑が続いたため、運河には熱帯魚が泳いでいた。トーマスはそれをこの目で見た。それはソードテール〔尾が剣のように伸びた赤い熱帯魚〕だった。彼は自分の水槽にソードテールを飼っていたので、それがソードテールだと確信していた。ソードテールは、恋に落ちると水中でコミカルに踊る、愛らしい魚だ… と書かれている。ここで重要なのは、「トーマスが水槽にソードテールを飼っている」という設定。映画では、「水槽にソードテールを飼っているのは父」に変わっている。大きな変更の一つ。3枚目の写真は、教会の前に着いたトーマスが、ピー叔母が乗った自転車(矢印)を停める場面。上記の原作で、禁止項目として「自転車」も入っていたし、彼女と夫以外は全員歩いてきたので、この2人だけ違反行為をしたことになる。因みに、この教会について、原作には、そこへ行く人はほとんどいなかったが、彼らだけは行った。父、母、マルホ、そしてトーマスだ… 教会には、盲人や聾者、あるいは足の不自由な、20人ほどの老人が集まった… と書かれている。

教会の中のシーン。いわゆる 「悔い改めの祈り」。牧師が、「主の御目を逃れうるものは、何ひとつありません」と勧告し、信者の1人(原作によれば、たくさんボタンがついた黒いドレスを着たハゲの男性)が、「慈しみ深き主よ、我ら惨めな罪人を救いたまえ〔Goedertieren Heer, verlos ons, ellendige zondaren(フーダティーラ・ヒア・フロス・オンス・エレンダ・フズンダーラ)〕」と歌う。牧師が、次に、「なぜなら我らは、主の御子と呼ばれるに値しない者たちだからです」と勧告する、父が、長さ2mはありそうな棒の先端に付いた献金袋で、何か別のことを考えていたに違いないトーマスを突き、歌うよう命じる。とっさに立ったトーマスは、「善き雄牛たちの主よ、我らの惨めな日曜日を救いたまえ〔Goede stierenheer, verlos onze ellendige zondagen(フードゥ・スティーラヒア・フロス・オンズ・エレンダ・フズンダーハ)〕」と真似たつもりが、少し発音が違ってしまう(この祈りの言葉は、字幕によって違うので、敢えて原作をそのまま流用した)。しかし、結果として、祈りの言葉は全く違ったものになってしまったので、みんながトーマスを見る(1枚目の写真)。怒った父は、献金袋をトーマスの前に出し、トーマスは母にもらったコインを入れる(2枚目の写真、矢印)。教会の出口で、牧師から、「あなたの息子さんはユーモアのセンスがありますね」と言われた父は、恥ずかしく(3枚目の写真)、「そう、彼は本当に冗談好きなんですよ」と、トーマスがワザと言ったと誤解したまま、謝罪する。

家に帰ると、すぐにトーマスは上の階に行こうとするが〔玄関のみ1階で、“家の入口” は専用階段を上った2階にある。上の階は3階〕、父は「トーマス、こっちに来い」と止める(1枚目の写真)。「なぜ?」。「私が、そう言ったからだ」。そして、トーマスを前に立たせると、「私を見て歌え」と命じる。トーマスは、教会で歌った “間違った” 祈りの言葉を、父の前で唱える。母は、「この子と一緒に練習しまう。わざとやったわけじゃないわ」と庇う(2枚目の写真)。「私は息子と話しているんだ」。「まだ9歳なのよ」。この言葉に “反抗の芽” を感じた父は、いきなり母の頬を引っ叩く(3枚目の写真)。映画では、母は叩かれても顔を背けたまま健気に立ち尽くすが、原作では、その時、父の手が不意に伸び、母の頬を鋭い音を立てて打ち据えた。彼女はよろめいて後退し、トーマスを離した… と書かれている。いずれにせよ、許されない暴行だ。父は、「トーマス、上へ行け。スプーンを持っていくのを忘れるな」と命じる。

トーマスはキッチンに行き、大さの異なる木のスプーン〔大きな鍋で料理をかき混ぜるための調理用スプーン〕の中で、一番大きいのは痛いので、2番目に大きいスプーンを取る(1枚目の写真)。上の階の自室に行き、イスの上にスプーンを置き(2枚目の写真、矢印)、パンツを脱いで父の来るのを待つ。その間に、トーマスは、「すべてが消えた。何も残っていない。僕もいない」と何回も繰り返す。父は、スプーンを手に持つと、それで何度もトーマスのお尻を叩く(3枚目の写真、矢印)。トーマスは激痛に耐えながら、「神は存在しない」と何回も繰り返す。最近の映画では、残酷なシーンは極力見せないので、トーマスの苦痛が分からない。原作を引用しよう。男は戸口に木のように立っていた。彼はトーマスのところへ歩み寄り、手を差し出した。トーマスは木のスプーンを彼に渡した。それから男はトーマスのベッドの横にある椅子に座った。彼は何も言わなかった。言う必要はなかった。トーマスは自分が何をすべきか正確に知っていたからだ。彼はズボンを脱いだ。それから下着も脱いだ。彼は父親の膝の上にうつ伏せになり、裸の尻を空中に突き出した。打撃が始まった。木のスプーンが空中で振り回された。バシッ! 痛みはナイフのように彼の皮膚を切り裂いた。バシッ! 最初はトーマスは何も考えなかったが、3度目の打撃を受けた後、言葉が頭に浮かんだ。「ママを叩いたから、神はエジプトのあらゆる災いで、彼をひどく罰するだろう」という文をゆっくり唱える間に、15回の。バシッ! 聖書の言葉は終わったが、打ち据える手は止まらなかった。「神は存在しない」を2回唱える間に、6回のバシッ! ようやく殴打が終わり、焼けるように熱い尻に下着とズボンを被せたとき、自分の中から “父” という存在が永遠に叩き出されて消え去ったことを、彼は知った。お仕置きが終わると、父は、正しい祈りの歌をトーマスに言わせ(4枚目の写真)、「これを、正しく100回唱えてから下へ降りてこい」と命じて下の階に降りて行く。トーマスは、「神様、お願い」と祈る。ただ、これだけでは、分かりにくい。原作のトーマスは、「神様、お願い、どうか存在して。エジプトの十の災い、お願いします」と切に願う。しかし、神は、いかなる言葉も介さず、ただ沈黙を貫いた。

トーマスは、自分の部屋に戻る。彼の部屋の、窓と反対側の壁には、十字架に縛り付けられたイエスの絵が掛かっている(1枚目の写真)。トーマスは、絵の下のベッドに横になって、神に話しかける。「聞こえます? そしたら、父を罰してください。 いますか? 僕、トーマスです。もしあなたが存在するなら、僕を助けてくれませんか? どうしても、お話ししたいんです。どうか、神様」(2枚目の写真)。次のシーンでは、窓辺の机に座ったトーマスが空を見上げ、「お願い、存在して。そうすれば…」と言い、『無題の本』に、「父を罰して欲しい」と書く。すると、背後の絵のイエスの手が、十字架から離れる(3枚目の写真、矢印)。「だって、父はママを殴ったから。彼を許してはいけない。決して許してはいけない」。そこまで書いたところで、いきなり声がする。「やあ、トーマス、元気かな?」。「いいえ」。「一体どうしたんだ?」。「ママを殴っちゃダメなんです」。「誰が?」。「ご存じでしょ?」。「なんてことだ。彼は正気を失ったのか?」(4枚目の写真)。「正直に言わせてもらえば、あなたは僕たちの役に立っておられません」。「一体全体どうしたんだ? 私は人類を救ったんだよ!」。「失礼ですが、『何から』ですか?」。それを聞いたイエスは、何ともならないといった仕草をすると、窓の外に天に登る階段を作り、そこから外に出て行く。トーマスは、「ねえ、あなたの父上と話をさせて。一緒に行ってもいいですか?」と声をかける。そして、イエスの後を追って行く。原作では、トーマスの部屋で会話が続く。「失礼ですが、『何から』ですか?」を聞くと、主は眉間にしわを寄せた。「おいおい」と彼は言った。「そんなの、君が一番よく知っているだろう」。「さあ、僕は何も知りません」とトーマスは言った。「わかった、わかった」と主は言った。「大きくなれば、そのうち分かることだよ」。「そういうことですか」とトーマスは言った。主イエスはトーマスを見つめ、彼の手をその頭の上に置いた。「君は強いよ、トーマス」と彼は言った。「君が強いのは、君が優しいからだ。そのことを覚えておくがよい。私たち天の者は君を誇りに思っている。信じるかな?」。

トーマスは勝手に階段を登り天に向かう(1枚目の写真、矢印)。映画の最後に、イエスがこれと同じ角度で飛んで行く姿が映るので、この階段は、トーマスのために作ったとしか思えない。何れにせよ、トーマスの空想の世界なので、登って行った先にあるのが天国なのか、単なるイエスと天使たちの住処なのかすら分からない。ただし、原作には、トーマスが天に向かうシーンは一切ない。トーマスが天にある門をくぐると、そこには大勢の天使〔聖書では、天使たちに性別がなく、性別が「割り当てられる」時にはいつでも「男性」なのだが、ここではすべて女性〕がいて、イエスはどこにもいない。天使の一人は「イエスはとっても忙しいの」と言う。トーマスが「いいんです」と言うと、「でも、あなたが立ち寄ったことは、イエスに伝えておくわ」。「立ち寄ってくれてありがとう」。「次は、きっと運が向くわ」と皆が声をかける(2枚目の写真)。トーマスが去ると、「なんて可愛い子なの」。「素敵な目ね」と感動する。たわいのない内容だが、原作では結末が突然の「天使たちのトーマス好き」で終わるので、こうして、「一度は会った」ことにしておいた方が筋は通る。家に戻った〔あるいは、仮眠から目覚めた〕トーマスは、『無題の本』に、「絶対、許さない!(vergeef hem NOOIT!)」と書く(3枚目の写真)。

翌日、トーマスは運河に沿った草地の上に布を敷いて座り〔ズボンを汚さないよう、父から強く言われている〕、昨日も見たソードテールが、水の上で跳ねているのを楽しそうに見ている〔何度も書くが、空想〕。すると、そこに、お向かいに越してきた義足のエリシャがすぐ横まで歩いて来て(1枚目の写真、矢印は義足)、「今日は」とトーマスに声をかける(2枚目の写真)。エリシャは、そのまま両脚を投げ出して隣に座ると、「これ義足よ。だからギーギー軋むの。触ってみる?」と訊く。7つ年上の女の子に、そんなことを言われても遠慮してできないので、逆に、「あの熱帯魚、見える?」と訊く。エリシャは、トーマスの空想上の存在を 「ええ」と言って認めた上で、「それは、人々が休暇に出かける時にトイレに流してしまうからよ。下水道にはワニも住んでるわ」と、空想に “理由” まで付けて賛同する。「見たことあるの?」。「ちっちゃなのを1匹! トイレよ。触らないほうがいいわ。4本の指を一気に噛み切っちゃうから!」と言って、親指~薬指までを折り曲げ、小指1本だけ立てた手を見せる(3枚目の写真、矢印は折り曲げた指)。原作では、最後の台詞の後半がない。「ちっちゃなのを1匹! トイレよ」。彼女は手を上げた。トーマスは驚いた。その手には小指しかなかったからだ。他の指はなかった… と書かれ、こちらの方が、より深刻だ。このあと、お互い名前を交換した後、去って行くエリシャを、トーマスはじっと見つめる。原作には、「わお」と彼は言った。エリシャが角を曲がるのを見ながら 彼は恐怖が込み上げてくるのを感じた。しかし、頭の中では陽気な鈴の音が鳴り響いていた。彼女は美しい、と彼は思った。「そして、彼女は僕が見てるものを理解してる。それが真実だと理解してる。つまり、エリシャも知ってるんだ」と書かれている。因みに、この文は、トーマスの一家が教会に行く前に入っている。

場面は、2度目で最後の教会でのシーンに変わる。つまり、6日後だ。牧師は、旧約聖書の『出エジプト記』を読み上げている。「主はモーセに言われた。『ファラオのもとに行き、わたしの民を去らせよと告げよ』」(1枚目の写真)「しかし、ファラオはモーセの言うことを聞かず、主の怒りを招いた。十の災い。神はエジプトの地に災いを下した。蛙が彼らの家と寝床に入ってきた。そして主は川の水をすべて血に変えられた。魚はすべて死んだ」〔なぜ『出エジプト記』の第8章を先に言い、その後に第7章を言ったのか?〕。ここまで来た時、トーマスはマルホに、「ファラオが悪いからって、魚たちには罪はないよね?」と訊く。牧師:「しかしファラオは頑固で、高慢で屈服しなかった」。マルホが答えないので、トーマスは 「どうして魚が殺されなきゃいけないの?」と、もう一度 表現を変えて尋ねる。父は勧告中の不遜な発言に対しトーマスを睨みつけ、母は 「静かに」と小声で(笑顔で)注意する。なお、原作には2度目の教会はない。家に戻ったトーマスは、隣に住む老女アメスフォーツ夫人が、“邪悪な魔女” として悪ガキ連にからかわれている時、ドアから外に出て行く。すると、猛犬(原作では “尻噛み犬〔Billenbijter〕”)が夫人と悪ガキ連の方に猛然と走ってくる。悪ガキ連は逃げ、夫人は両手に持った重い荷物を歩道に置く。そして、夫人が両手を拡げて猛犬に向かって 「止まれ!」と言い、小声で「いい子、いい子」と囁くと、急におとなしくなる(2枚目の写真)。夫人が、さらに、「私の意志に従え」と言うと、猛犬は地面に横たわる。「いい子ね。家に走ってお帰り」。その言葉で、猛犬は走っていなくなる。それを見たトーマスは、「荷物を運びしましょうか?」と声をかける。「親切なのね」。トーマスは、両手で荷物を持とうとするが、重くて持ち上がらない。しかし、夫人が、「あなたには重くないはずよ」と言うと、なぜか普通に持つことができ、トーマスは夫人の後を追って行く(3枚目の写真、矢印は荷物)。トーマスが、夫人に続いて家に入って行くと、夫人は、荷物を持ってくれたお礼に、「トーマス、オランジャード〔シロップ水〕を一杯いかが」と言い、赤い液体の入ったビンとコップを持ってくる。夫人は、トーマスの手に赤い液体の入ったコップを置いた時、「血よ」と言って くすくす笑う〔魔女らしい冗談〕。トーマスは、渡されたコップに注がれた真っ赤な液体を見て、牧師の「主は川の水をすべて血に変えられた」を思い出し、緊張するとともに、相手が “魔女” だけに、本当に血だったら恐ろしいと思い、コップに鼻をつけて臭いを嗅ぐ(4枚目の写真、矢印は赤い液体)。原作では、「いただきます、奥さん」と、トーマスは言った。アメルスフォールト夫人は魔女であり、その台所はつまり魔女の台所なのだから、彼の心臓は教会の扉を叩くような音を立てていた。シロップ水は 血のように赤かった… と、もっと簡潔に書いてある。

トーマスに向か合ったイスに座ったアメスフォーツ夫人は、いきなり、「あんたが来てくれて、クソ〔verdomd〕嬉しいわ」と発言する。この「クソ」に関しては原作の方が分かり易いので引用すると、トーマスは「クソ」という言葉にぎょっとした。彼は聖書学校に通っていたので、友達同士ではかなり激しく毒づいていたが、大人が汚い言葉を使うのを耳にしたのは、これが初めてだった… その後、夫人は、「うちの子たちはとうの昔に出て行ったし、夫は銃殺されたのよ。あの人はレジスタンスにいたの。分かるでしょう」と昔の話をする。その話に、トーマスはうつむく。原作:喉の奥と腹の底に、大きな悲しみがこみ上げてくるのを感じた。夫人は、トーマスの気分を高揚させようと、ポータブル蓄音機にレコードをかける。すると、ベートーヴェンの音楽が流れる。それをうっとりと聞いている幸せそうな夫人は、イスに座ったまま宙に浮かんで行く〔トーマスの想像〕。最初、それに驚いたトーマスだが、自分もイスごと宙に浮き始めると、楽しくなる(1枚目の写真)。原作:彼の耳の中でキーンと音が鳴り始めた。地球儀が、猫を乗せたまま軸を中心に回り出した。それをアメルスフォールト夫人に伝えようとしたとき、彼女のどっしりとした椅子が、低く垂れ込めた雲のように床の上に浮かんでいるのが見えた。彼がそれに気づくか気づかないかのうちに、自分の獅子脚の椅子も、まるで見えない力強い手に持ち上げられるかのように、うやうやしく浮き上がるのを感じた。彼は喜びのあまり叫びだしたい気分だった。けれど、アメルスフォールト夫人の熱心な横顔を見て、この音楽が流れるときには椅子が宙に浮くのは当たり前のことなのだと理解した。トーマスは、空想で、素敵な庭を歩いているエリシャを上空から見下ろす。彼女は、真っ白なロールスロイスの前にいて、その後ろには立派なお城が見える(2枚目の写真、矢印はエリシャ)。因みにこの場所は、オランダから僅か1.5kmドイツに入った所にあるアンホルト水城〔Wasserburg Anholt〕。私が泊った時に撮った写真を3枚目に示す。音楽が終わり、我に返ったトーマスに、夫人が 「将来はどんな大人になりたいの?」と訊くと、トーマスは 「幸せ。僕は将来、幸せになるよ」と、父に虐げられた現状からの脱出を夢見る(4枚目の写真)。夫人は、「それはクソ素晴らしい考えね。幸せって、何から始まるか知ってる? もう怖がらなくなることからよ」と、非常に重要なことを教える。そして、トーマスが帰る時、夫人は「この本は、怖がることなく不正と戦った少年の物語よ」と言い、『エーミールと探偵たち』を貸し与える(5枚目の写真)。原作では「あんたにあげるわ」。

トーマスが家に戻ると、隠れていたマルホが飛び出してきて、「あそこはどうだったの?」と訊く。「言わないよ」。「彼女の家には何があるの? 教えて!」(1枚目の写真)。「僕たちの家とは違うんだ!」。「どういうこと?」。「いろんな物がいっぱい」。2人はじゃれ合い、父と母が話している部屋のドアにぶつかる。父が、「トーマス」と注意する。一方、部屋の中では、父が10ギルダー札を母に渡し(2枚目の写真、矢印)、「これを受け取れ。できるだけ長く引き延ばせ。いいな?」と言う。「やってみます」。映画の設定(1961年)当時の1ギルダーは、「数日分のパンと牛乳」が買える金額。非常にケチな父だ。原作は 1951年の設定だが、状況も少し異なる。父が、「今月はどうやってやりくりするつもりだ?」と訊くと、「服を買うお金を食費に回すわ」と母が言った。「よせ、お前」。父が言った。「そこまでする必要はない」。彼はため息をつきながら、後ろのポケットから財布を取り出し、25ギルダー紙幣を引き抜いた。「ほら、これを受け取れ」。彼は言った、「だが、家計費はしっかり管理しろよ」。1951年の1ギルダーは、1961年の1ギルダーの1.5~2倍の価値。従って、25ギルダーは1961年の38~50ギルダーに該当する。渡した目的が違うかもしれないが、どうして、同じ金額にしなかったのだろう?〔どのみちケチで貧しいことに、変わりはないが〕。部屋に入って来たトーマスに、父は、「どこに行ってたんだ?」と訊く。「お隣」。「アメルスフォールト夫人か?」(3枚目の写真)。「買い物袋を家の中まで運んであげたんだ」。母:「なんて優しいの」。「あそこへ行くのは好かん」。母:「どうしてだめなの?」。「あの女は共産主義者だ。ロシア人が攻めてきたら、彼女は歩道に立って歓声を上げる。そして我らキリスト教徒は、皆そろって奴隷にされるんだ」。父は、トーマスが持っている本を取り上げ、「今すぐ返して来い」と命じる。

トーマスが、『エーミールと探偵たち』を自室に持って行ってこっそり読んでいると、母が入って来て、「アメルスフォールトさんのご主人は、私たちの自由のために命を捧げたのよ。彼女自身も、戦争中に何人もの人を救ったわ。お母さんは、あなたがあの人のところへ行くのは構わないと思っているの」と、父とは正反対のことを言う。「でも、父が…」。「お父さんに気づかれないよう気をつけてね」。それを聞いたトーマスは、「ママは幸せ?」と尋ねる(1枚目の写真)。母は、「ええ、そうよ。あなたが私を幸せにしてくれるから、小さな英雄さん」と答える。1人になったトーマスは、『無題の本』に、アメルスフォールト夫人から教えられたことを短くして、「幸せは、もう怖がらなくなることから始まる!〔Geluk begint met niet meer bang zijn!〕」と書く(2枚目の写真)〔原作にはない〕。そう書いた後で、「魔女だったら、簡単にできるのに」と呟く。トーマスの窓からは、エリシャの部屋がほぼ正面に見える。そこで、トーマスは、エリシャに手紙を書き始める。「大好きなエリシャさん。❶。あなたは、歩くたびにギシギシ鳴る革の脚のせいで、自分は綺麗じゃないと思っているかもしれません。エリシャさんは、この世で一番綺麗な女の人です。エリシャさんは将来、お城に住んで、玄関の前にロールスロイスを停めることになると思います。付き合ってほしくてこれを書いているわけじゃありません。だって… 僕… 9歳だから。もうすぐ10歳! 僕が、この手紙を書いてるのは…」。原作の恋文では、❶の部分に、後から、「本当はこれを書く勇気なんてないけれど、でも書きます」の一文が挿入される。また、ラストの黒字の部分は、「エリシャさんはもう16歳で、僕は9歳(もうすぐ10歳)だから、そんなの無理だって分かっています。ただ、これが本当のことだから書いているんです」と、相手の年齢がはっきり書いてある。ここまで書いて、トーマスは、自分のことを、「バカ! 負け犬! ちくしょう!」と言い出す。すると、いつもの声が、「これは素晴らしい手紙だ… 夢見る子のトーマス。これ、本心を書いたんだね? 素敵だ」と言う。イエスは、手紙を取り上げると 声を出して読み始める。トーマスは、必死になって手紙を取り返す。イエスは、「送るのを忘れないで。女の子は恋文が大好きなんだ。勇気出して、すべてうまく行くから」と励ます(3枚目の写真)〔励まして欲しいと思ったから、空想の中で登場した。だから、こう言うのは当たり前〕。原作では、恋文に対し、イエスは何も言わない。翌朝、トーマスは、さっそくエルサの家のドア・ポストに恋文を入れる(4枚目の写真)。

キッチンのテーブルに座ったトーマスは、縫物をしている母に『エーミールと探偵たち』を読み聞かせている。話が面白いので母が笑っていると、そこに、仕事から戻って来た父が〔父の職業は原作にも書いてないが、いつも背広姿なので、小さな会社の、役職にもつけない平社員であろう〕、「何を笑ってる?」と訊き、「ニシンも手に入れた」と、薄い紙包みを母に渡す。その時、父は、目ざとく『エーミールと探偵たち』に気付く。母が、「私が許可したの」と言うが、そんなことは無視し、父は本を取り上げる(1枚目の写真、矢印)。そして、「トーマス、今すぐ返して来い」と命じる。トーマスがキッチンから出てドアを閉めると、「お前、息子に、私の言うことなど聞く必要はないと言ったのか? どこから、そんなこと思いついた?」という非難の声が聞こえてくる。母の 「ただの子供向けの本よ」から口論が始まり、トーマスは本を返しに行く。そして、お隣に行くと、ドアベルのボタンを押す前に、魔女の家らしく、自然にドアが開く。トーマスは、恥ずかしいので、うつむいたまま本を返す〔原作では、本は返さない〕。そして、食事の時間、父は、聖書を開け、読み上げる場所を探している。そして、先日の牧師が省略して話した『旧約聖書の出エジプト記』の8章1節から読み上げ始める。「主はモーセに言われた。『ファラオのもとへ戻って、私の民を解放するように言いなさい』『しかし、もし彼が拒否するなら、私は彼の領土を蛙で満たすだろう』『そしてナイル川は彼らで満ち溢れるだろう…』〔なぜ、教会の牧師と同じように、第8章を先に読むのか分からない。原作では第7章を先に読む〕。まだ途中なのに〔戒律の厳しい解放派では、通常1章分を読むのが慣例(8章は32節まであるので10分はかかる)〕、ここで、マルホがいきなり、「アーメン」と言う(2枚目の写真) 。この言葉は、祈りの最後に言われる終止符なので〔「アーメン」と唱えられた瞬間に 神との対話が閉じられる〕、父は何も言えなくなる。トーマスと母は、びっくりして父がどうするか見ている。父は、しばらく、読みかけた姿勢のまま凍り付いたように動かない。そして、ニヤニヤした笑顔のマルホを睨む。すると、マルホは、笑顔のまま 「ニシン万歳! 大好きよ」と言うと、自分の皿からニシンの頭を手で掴むと、顔の高さにぶら下げて、身の方を口に入れて食べ始める。それを見た父は、何も言わずに聖書を閉じ、席を立って聖書を棚に置きに行く。母は、ニシンの皿を聖書の置いてあった場所に動かすと、3人揃って、ニシンを掲げて食べ始める(3枚目の写真)。これは、食前の父による祈りを無理矢理ショーカットしたマルホによる大胆な反抗だが、なぜか父は何も言わない。この節の内容は、原作には全くない。一ヶ所だけ原作と同じ台詞があるが、別の個所で使われたもの。

翌日、トーマスはエリシャからの返事を待ち焦がれ、自宅のドア・ポスト横の階段の一番下の段に座ってじっと待っている〔前に書いたように、階段を登った上にトーマスの家がある。典型的な上階住戸〔Bovenwoning〕〕。すると、ポストから1通の封筒が入れられ、床に落ちる。その音を聞いたトーマスは、走っていって封筒を拾うと、封筒の宛先も何も見ずに、そのまま外に走り出て、大きな木が等間隔に植えてある道路の反対側の野原を走り、その端まで行くと封筒を開け、中の手紙を取り出す。そして、エリシャからの返事だと思い、期待して読んでみると、そこには短く、「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です〔Een man die zijn vrouw slaat, onteert zichzelf〕)」と書いてあった(1枚目の写真)。エリシャの手紙とは思えないので、封筒の宛先を見ると、「クロッパー氏へ」と書いてあり、次に封筒の裏を見ると、「アメスフォーツ夫人より」と書かれている。期待した手紙でなかったことに腹を立てたトーマスは、封筒をくしゃくしゃにして茂みの中に捨てるが、手紙に書いてあったことの重要性に気付くと、一旦捨てた封筒を拾い(2枚目の写真、矢印)、中から手紙を取り出すと、封筒は再度捨て、安全ピンを取り出すと、手紙に突き刺し(3枚目の写真、矢印)、自分のシャツの裏側に張り付ける。原作では、トーマスが都合よく安全ピンなど持っているはずがないので、トーマスは、折り畳んだ手紙をズボンのポケットにしまい、家路についた。それが正確にどういう意味なのか分かるまで、家の中のどこかに隠しておかなければならなかった」。そして、家に帰ると、「彼はポケットからアメルスフォールトさんのメモを取り出した。彼はあたりを見回した。どこに隠せばいいだろう? 箪笥の中の服の間か? いや、母が毎週その中を整理している。マットレスの下か? いや。剥がれかかった壁紙の裏か? いや、それもだめだ。彼のすぐ横、テーブルの上に『エーミールと探偵たち』が置いてあった。彼はそれを見つめ、不意にひらめいた。解決策はその本の中にあった。ピンだ。いや、もっといいものがある。安全ピンだ! でも、どうやって安全ピンを手に入れればいいだろう? そうだ! 母のエプロンが目に浮かんだ。彼は階段をこっそり下り、台所へと忍び込んだ。そこには、フックにエプロンが掛かっていた。吊り下げ用の紐ではなく、安全ピンで留めてあった。彼はフックからエプロンを取り、安全ピンをパチンと外すと、ザッとそれを手に入れた。彼はエプロンをそのままフックに引っ掛け直し、自分の部屋へとこっそり戻った。彼は2回折り畳んだ手紙を手に取り、4重になった紙の中に安全ピンをぐいと突き通した。それから、自分のシャツのボタンを外した。安全ピンを使って、シャツの内側に手紙を固定した。胸ポケットの裏側だったので、表からは何も見えなかった。彼はまたシャツのボタンを留めた。今や彼は、アメルスフォールトさんの呪文を、自分の胸に抱いていた… と書いてあり、結構大変だったことが分かる。

トーマスが家の前まで戻ると、お向かい家の庭で 家族の年下の子供たちと遊んでいたエリシャが寄って来て、「ねえ、トーマス。あれは、今まで…今まで…今までもらった中で、一番、一番、一番素敵な手紙だったわ。大切に取っておくわね。あなたって、他の誰とも違うのよ… 分かってる? 将来、私がお城に住んだら、いつでも遊びに来ていいわよ。そしたら、私のロールスロイスでドライブに行きましょう」と言うと、トーマスの頬にキスする(1枚目の写真)。エリシャの言葉で原作と違うのは、中央の黒字の部分。原作では「悲しいときはいつでも、あの手紙を読むことにするわ。あなたは、本当に優しい子ね。」となっている。トーマスはキスされて呆然とするが、突然現れたイエスは、手を叩き、両手の親指を立てて成功を祝う(2枚目の写真)。それに対し、トーマスも1回ジャンプしてから、両手の親指を立てる(3枚目の写真)〔イエスとトーマスの「やった」のシーンは、原作にはない〕。原作では、信じられない出来事だった! エリシャからのキスを、通りの真ん中で。たった一通の手紙で! 彼の耳の中でキーンと音が鳴り、以前にも聴いた、あのたくさんのバイオリンが奏でる音楽が聞こえてきた。彼は喜びのあまり飛び跳ねた。驚いたことに、体がすっかり軽くなっていたので、2メートルも空中に舞い上がった。家に着くと、彼は『すべてを書いた本』にこう書き記した。「僕は人々に手紙を書かなければならない。そうすればみんな喜んでくれる。そして、僕のことを好きになってくれるんだ」と、その喜びようがひしひしと伝わってくる。自室に戻ったトーマスに、机の後ろにあるベッドに横たわったイエスは、「君が恐怖を乗り越えたから、素晴らしいことが起きたんだ」と話す。トーマスは、「エリシャは僕を待っていてくれると思いますか? 僕が大人になるまで」と訊くと、イエスは空想の産物なので、当然トーマスが望んでいることを言ってくれる。「そう思うよ。若いってことはいいことだ」(4枚目の写真)。トーマスは、さらに、「彼女が革の義足を取り外すところを見るのは、怖いでしょうか?」と訊くと、イエスは、「君はもっとひどい修羅場〔父の専横的な態度や暴行〕をくぐり抜けてきたろ」と言う。この言葉は、トーマスが拾った「アメスフォーツ夫人の警告文と合わせて、次のシーンの推進力となる。原作では、イエスとのこの会話は、何と原作の最終章。

その日の夕食で、父は、『旧約聖書の出エジプト記』の7章を読み上げている〔8章のあとに7章〕。「…しかしファラオの心は頑ななままなので、主はモーセに杖で水を打たせるよう命じ、ナイル川の水を血に変えさせた。 ナイルの魚は死に絶え、川は悪臭を放ち始めた」(1枚目の写真)〔次のシーンのための脚本上の短縮版〕。ここで、トーマスが、「神様はどうやってファラオを説得するつもりなの?」〔こんなにひどいことをして、説得できるの?〕と質問する。それを聞いた父は、待ってましたとばかりに、「トーマス、とてもいい質問だ」と褒める。そして、「ファラオに説いて聞かせても無駄だったんだ。この強情者は、イスラエルの民を去らせることを〔貴重な労働力なので〕決して聞き入れようとしなかった(2枚目の写真)。だから神は、彼の心を和らげ、考えを改めさせるために、これらの災い(十の災厄)を下したのだ。これらの罰が、ファラオに己の非を悟らせた〔実際には、悟っていない〕。神は彼を正しい道へと導いたのだ〔実際には、神には導けず、ファラオは 一旦出国させようとしたイスラエルの民を阻止しようと大軍で追った〕」と、聖書の記述と矛盾したことを言う。先の父の説明の台詞の背後に映る映像は、途中から父の顔ではなく、水槽の熱帯魚に餌を与える父の姿と、餌を与えられた熱帯魚へと変わる(3枚目の写真)。そして、トーマスが 「エジプトの災い」と呟く。原作では、父が、「ナイルの魚は死に絶え、川は悪臭を放ち始めた」と父が読み上げたあと、「魚たちが?」とトーマスは思った。「ソードテールたちも? ファラオが悪い奴だからって、魚たちに何の罪があるっていうんだ?」。彼は、暗い奥の部屋で明かりに照らされている水槽に目をやった。それは青々と澄んで見えた。もし突然、水が血のように真っ赤になったら…魚たちは死んでしまうのだろうか? 「エジプトの十の災いを」と彼はささやいた。「一つ残らず」。彼は自分の魚たちをとても可愛がっていた。けれど、時には犠牲が必要なこともある… という、重要な文章が入る。映画では水槽と熱帯魚は父のものだが、原作ではトーマスのものだ。トーマスが、父の水槽に「エジプトの災い」を与えたいと思うのは容易に理解できるが、自分の水槽に「エジプトの災い」を与えるには、相当の理由と覚悟が必要となる。だから、原作では、その点に疑問を生じさせないように、はっきりと記述されている。

翌日、トーマスはアメスフォーツ夫人の家に行くと、「聞きたいことがあるんです。すごく変な質問だけど」と言う(1枚目の写真)。夫人は、「私も変な質問があるわ」〔原作では、さらに、「あんたが先で、その次が私よ」〕と言う。「シロップ〔薄める前の原液〕 、家に持って帰ってもいい?」〔赤いフルーツシロップでも、“糖分が多すぎる原液を狭い水槽に入れれば、水質が激変し、浸透圧の狂いや酸欠で魚は死ぬ” ので問題はない。ただ、そのことを、どうして9歳の子供が知っていのかについて、原作でも説明はない〕。「もちろん、いいわよ」〔原作では、「ここで飲めばいいじゃない」と否定的〕。「ボトルごと欲しいんです」。「ボトルごと?」(2枚目の写真)〔原作では、さらに、いいわよ、新しいのを買えば済むことだもの と付け加える〕。トーマスは、瓶を受け取ると、「ありがとう」と言うが、夫人は、〔原作では、まず、今度は私の番ね。変な質問よ。いくわよ と言ってから〕「トーマス、家で叩かれているの?」と訊く。これに対し、トーマスは即座に 「僕? いいえ」と否定する。原作では、トーマスは、衝撃が腹に一撃をくらったかのように感じた。「僕が?」と彼は叫んだ。「まさか、そんなことないよ!」。彼は思った。自分も時々お仕置きを受けるけれど、叩かれているのはママなんだ。「ママだよ!」と言いたかった。「ママが叩かれているんだ!」。でも、喉がまるでビンのスクリューキャップのように固く締まってしまった… 夫人はすべて、何もかも知っているんだ。けれど、彼の口には鍵がかかったようで、一言も喋れなかった… と、もっと切実に描かれている。そして、それにもかかわらず、夫人は、「それならよかったわ」と言う。ここからが映画。トーマスが帰ろうとすると、夫人は、〔原作では、まず、「あんたに一冊選んであげるわ。ほら、」と言ってから〕「これを持っていきなさい」〔さらに、「でも、これは返してちょうだいね」〕と言い、『家なき子〔原題:世界に一人きり〕』をトーマスに渡す(3枚目の写真)。夫人は、「あんたには家族がいて、よかったわね」と付け加える〔原作では、この本を貸してあげるのはね、あんたがこの世界で「一人きり」じゃないからよ と逆の表現をする〕。夫人は、最後に、渡したシロップについて、「シロップの扱いには気をつけて。これはきつい代物だからね」と注意する。

トーマスは、「エジプトの災いが、ファラオの心を和らげますように」と思いながら家に向かう。そして、「エジプトの災いだ」と言うと、シロップのボトルの蓋を外し、水槽の中に一気に流し込む(1枚目の写真、矢印)〔泳いでいるのは小さなソードテール〕。ボトルの中身を全部入れると、最初は、密度が濃くて重いシロップが底に貯まる(2枚目の写真)。原作には、トーマスがどのように実行したのかは書いてない。それから、かなりの時間が経過し、トーマスがマルホと一緒に、食卓にテーブルクロスをかけていると、帰宅した父が、「なんてことだ!」と驚き、すぐに母を呼ぶ。「どうかしたの?」。「見に来い!」。その声で、マルホも父の方を見て水槽の変化に気付き、「水が血に変わった」と言う(3枚目の写真、矢印は均等に赤く染まった水槽)。ここまでの状況は、原作ではかなり違う。水槽は父の所有物ではないので、帰宅してすぐに見たりしない。だから、いつものように食卓で、食前の祈りを唱えると、さあ、食べなさい と言う。すると、水槽に目を向けたマルホが、ちょっと、あれ見てよ! 水槽が真っ赤よ! と叫ぶ。ここからは引用。父は振り向いて見た。母も見た。「なんてこった」とトーマスが言った。「一体どうなってるの?」。マルホは笑い出した。「分かったわ!」と彼女は甲高い声を上げた。けれど、あまりに激しく笑い転げたので、言葉にならなかった。彼女の目からは涙が溢れ出した。父は立ち上がり、水槽のそばへ歩み寄った。「私、分かったわ!」とマルホが叫んだ。「水が血に変わったのよ!」。父は戻ってきて、席に着いた。彼の顔は真っ青だった。彼は食べ始めた… 映画に戻り、母は、「水を変えなきゃ…トーマス!」と呼ぶ。父は、「だめだ、だめだ、だめだ! 触るんじゃない。そのままにしておけ」と命じる。マルホが、少し笑った後で、「まさに奇跡。アムステルダム・ザウトの奇跡だわ!」と言うと、父は、「マルホ、ふざけるな。ファラオの時代にも、ナイル川の水を赤く染めた嘲笑者たちがいた。ファラオの魔術師たちだ。彼らは言った。『見ろ、神にできることは、我々にもできる』と、そいつらは不遜にも笑いおった」。しかし、マルホは、「でも、その魔術師たちって、腕は良かったんでしょ」と言い返す〔原作では、「どうやってやったのかな?」〕。父は、「ああ、悪魔というのは、何だってできるからな」と諭すように言う〔原作では、「それは分からん。だが、奴らが悪魔に遣わされていたことだけは確かだ」〕。ここで、母は、現実に戻り、「もしかしたら、何らかの病原体が水に入り込んだのかも」と口を挟む。それに対し、父はトーマスを見ながら、「病原体なら、今、この部屋の中にいる。人間のかたちをしたその病原体は、神の全能を愚弄しとる」と言う(4枚目の写真)。それを聞いたマルホは、笑顔で 「おお怖」と楽しそうに、平気で父をバカにする。原作では、「魔術師だわ!」とマルホが熱狂したように叫んだ。トーマスは彼女の顔をのぞき込み、その瞳の中に、これまで一度も見たことのないものを見つけた。「姉さんは父をいじめてるんだ」と彼は驚いて思った。「ペテン師だ」と父が言った。「ファラオの魔術師たちがペテン師であったようにな。悪に憑りつかれた男たちだ」。「おっと!」とマルホが言った。「ワクワクしちゃうわね、パパ」。彼女はバカみたいにクスクス笑った… と、マルホが如何に “父のことを怖がっていないか” を強調する内容になっている。

ここで、映画には触れられていない部分の原作の重要な部分を引用しよう。「あとで水槽の水を替えるわ」と母が言った。「それはならん」と父が言った。「魚たちは死に、悪臭を放ち始めた…そう聖書に記されているのだからな」。母はもう何も言わなかった。マルホは学校の課題で読まなければならない本の話を始めた。誰も彼女の話を聞いていなかった。全員が食事を終えると、父は聖書を開いた。彼は言った。「覚えておくんだ、マルホ。この世に本物の本はただ一冊、聖書だけだ。お前が学校のために読まねばならん本は、ファラオの魔術師に似た、罪深い人間たちが書いたものだ。奴らは本を書くが、それは紛い物の本にすぎん」。「ふうん」とマルホは言った。彼女は自分の爪を眺めていた。「知性を持って読むんだ。そして、お前の心を聖書と共に置くのだ」と父が言った… ここで、母が、危機に瀕した息子を救おうと、トーマスを呼びつけ、ホースを水槽に突っ込み、サイフォンの原理で水槽の赤い水を、床に置いたポリバケツに入れ始める(1枚目の写真、矢印)〔バケツが小さ過ぎるので、何度も交換する必要がある〕。それを見た父は、「今すぐ止めるんだ」と、母に命令する。母は、「いやよ」と反抗する。原作の記述:母が鍋を持って入ってきた。「バケツを持ってきなさい」と彼女は囁いた。「おいで」。トーマスは空のバケツを手に、母の後をついていった。2人は居間を通って、水槽のある奥の部屋へ向かった。母は照明カバーを脇に寄せた。「サイフォンはどこ?」と彼女は尋ねた。トーマスはバケツを床に置いた。彼は水槽の下の戸棚を開け、ゴムホースを引っ張り出した。母はホースの一方の端を水に入れ、もう一方の端から吸い込み始めた。「何をしてるんだ?」と父が尋ねた。2人は父が近づいてくる音に気づかなかった。母はホースを口に含んでいたので、答えることができなかった。トーマスは父の顔を見上げた。「イエス様」と彼は思った。「僕たちを助けて!」。母は口からホースを離し、それを下へ向けた。バケツの中に、赤い水が音を立てて流れ落ちた。「水槽の水を替えてるの」と母が言った。父はポケットに手を突っ込んだ。「私は何と言ったかな?」と彼は尋ねた。「替えなきゃだめよ」と母が言った。「じゃないと魚が死んでしまうわ」。「それは、うちの邪悪な魔術師にとって良い教訓になるだろうよ」と父は言った。「私はそうは思わないわ」と母が言った。「お前、聞こえたはずだ」と父が言った。「今すぐ止めるんだ」。「いやよ」と母は言った。「3つ数えるぞ」。母のことが心配になったマルホは、「パパ、幾何学の宿題を教えてくれる?」と頼む。しかし父はそれを無視し、母を睨んだまま「1」と言う(2枚目の写真)。母は、動かずにじっと父の顔を見ているので、父は、一歩前に進み「2」と言う。マルホは、再び「パパ!」と声をかけるが、父はそれも無視。さらに、母に近づき「3」と言う。トーマスは、父の暴行を阻止しようと、父の足元にあったポリバケツを蹴飛ばして水浸しにするが、それと同時に、父は、母の顔を思い切り引っ叩く。トーマスは、父の右腕を掴んでそれ以上の暴行を阻止しようとするが(3枚目の写真)、簡単に突き飛ばされる。母は、自己防衛して叩き返そうとするが、父の次の渾身の一発で(4枚目の写真、矢印)、床に倒れる。

その時、玄関の呼び鈴が鳴る。父はマルホに 「開けるな」と言うが(1枚目の写真)、怒ったマルホはすぐに1階の玄関ドアのロックを外す〔もちろん、ボタン操作で〕。やばいと思った卑怯な父は、鼻血が落ちないよう妻にハンカチを渡し(2枚目の写真、矢印)、急いで上の階に行かせる。その時、ドアから入って1階の階段を登り始めたのは、父が一番嫌っている(来て欲しくない)アメスフォーツ夫人だった。夫人は、両家の部屋の一部が接近していて壁も薄いので、騒動が聞こえてきたため、トーマスを助けに駆け付けたのであろう。夫人が来たうわべの理由は、砂糖を分けてもらうため。父は、夫人に 「奥様はいらっしゃらないの?」と訊かれると(3枚目の写真)、父は「妻は気分が良くないんです」と嘘を付く。「あら、どうされたの?」。「胃の調子が悪くて」。夫人は、それが嘘で、“このロクデナシ” は奥さんをひどく殴ったに違いないと確信したので、「一度、じっくりお話しした方がよろしいようですね。よくお考えになって」と警告し、トーマスに 「私の代わりに、ママに大きなキスをしてあげて」と言うと、父には 「砂糖をどうも」と言って出て行く。ここは、ほぼ原作通り。

父は、如何にも偽善者らしく、キッチンに行くと、トーマスを叩く時の木のスプーンの前(偶然)に跪き、「主よ、怒りに屈した私をお許し下さい。あなたのしもべを導いて下さい。どうかお願いです。主イエス・キリストの御名において、お願いします。妻と子供たちを失いたくありません」と祈る(1枚目の写真)。原作の祈りは、「主よ、怒りに任せて行動してしまったことをお赦しください。この家族をあなたの御許へと導くには、どうすればよいのでしょうか。主よ、あなたのしもべを助けてください。主イエス・キリストの御名によって、こうお祈りいたします。アーメン」〔いずれにせよ、これらの祈りは、真の反省や悔い改めではなく、自らの暴力の正当化のため〕。父の祈りが済んだ後で、トーマスが、「僕、上の部屋に行った方がいいですか? そこで(お仕置きを)待っていましょうか?」と訊くと、父は、「いや、トーマス。こっちへ来なさい」と、罰を免除したことを暗に伝える。しかし、トーマスは 「来なさい」という言葉を無視して、母の様子を見に行く。そして、横を向いて寝ている母の肩に手を乗せる。すると、母は、「トーマス、あなたが助けたい気持ちは分かるけど、二度としないで。エジプトの災厄は、もうおしまいにして。いいわね」と言う(2枚目の写真、矢印は血)。「はい、ママ」。トーマスが水槽の所に戻ると、イエスが水槽を完全に空にし、内部の赤い液体も完全にぬぐい取ってくれている。原作では、イエスが現われるのは、トーマスがベッドに横たわってから。何れにせよ、赤いシロップ水が床を汚した後を、誰がどのように掃除したのかについての説明は、映画でもなされないし、原作にも書かれていない〔映画の場合、イエスが掃除をしているように見えるが、彼はあくまでトーマスの空想上の人物なので、掃除などできない〕。水槽の前でイエスがトーマスに語る内容は、父との関係についてと、その現状。「父はとても厳格でね、否応なしに、私をあの十字架に行かせたんだ! そして今、私はあの方を見失ってしまってね。とても奇妙だよ。どこを探しても見つからないんだ。君があの最後の折檻を受けたあと、あの方は消えてしまったんだ」(3枚目の写真)。しかし、原作で、イエスがベッドで寝ているトーマスに話す内容は、上記の内容とは全く違い、以前、トーマスが木のスプーンで叩かれた後に現れた時にイエスが話した言葉。そして、上記のイエスの言葉は、原作では、もう少し後で使われる。

シャツが違うので別の日、トーマスが居間の窓から見ると、お向かいがとても騒がしいので、1階のドアまで下りて覗いてみる。すると、エリシャの父が車のトランクから箱に入っていない中古のTVを取り出し、家に運んでいる。アンテナを手にしたエリシャは、トーマスを見つけると、「見に来て」と呼ぶ。エリシャの父は、TVを居間に置くと、隣の部屋の窓の近くで、小型アンテナをいろいろな高さと角度で試し、TVにちゃんと映像が入るようにする(1枚目の写真、矢印はアンテナ)〔アンテナのすぐ左にあるのは、1961年4月12日に打ち上げたボストーク1号によって生まれた典型的なスペース・エイジ・デザインの照明器具〕。居間では、母と4人の子供が、嬉しそうにTVを見る(2枚目の写真、矢印はTV、子供の1人は後ろにいて見えない)〔映画の設定の1961年の夏頃には、TVのブラウン管がこんなに丸くなく、もっと四角に近かった〕。そのあと、トーマスはエリシャの部屋に連れて行かれる。最初はエリシャがベッドの上で、トーマスは窓辺のイスに緊張して座っていたが、エリシャが 「こっちに来て」と言ったので、エリシャの隣に座る。トーマスは、思い切ってエリシャの義足の革に触り、2人とも笑顔になる。原作には全くないシーン。それにしても、なぜこのシーンをわざわざ追加したのか、全く理解に苦しむ。というのは、このシーンがあるために、映画の時代設定が、原作より10年後の1961年になってしまったからだ。

自室に戻ったトーマスは、正面に見えるエリシャの窓を見ようとするが、イエスが邪魔をする。「邪魔しないでよ」。「赤面してるな」(2枚目の写真)。「やめて」。そこに、ノックなしでドアを開けて入って来た父が、「誰と話してたんだ?」と訊く〔父に聞こえたのはトーマスの声だけ〕。その時、カメラが映す ドアの横の “磔にされたイエス” の絵に、イエスはいない〔あくまで、トーマスの目線〕 。父の声を聞き、トーマスはすぐに後ろを振り向き、「イエス様と」と答える。それを聞いた父は、壁の絵を見る。映像は、急いで絵に戻ろうとしたイエスが、間に合わなくて、十字架からかなり離れている(2枚目の写真、矢印)。しかし、この映像も、あくまでトーマスの目に見えたイエスなので、父の目には、当然、磔にされたイエス像が見えている。父は、トーマスが 「イエス様」という、普段は言わないことを口にしたので、イエス像を見ながら話を始める。「神とは、すなわち父でもあるのだ。その父は、自らのひとり子であるイエスを、彼を信じるすべての者を救うために十字架に差し出した。これこそが、神の愛の証明ではないか。お前も大きくなれば、私と同じように夫となり父親となる。そして、自分の妻や子供たちを “真実の道” へと導かねばならない。これは、主が父親の肩に課した重い責任なのだ。一家の主としての宿命なのだ。分かるか? そしてだな… もし、お母さんには訊きにくいような、男同士の話… “男の悩み” があるなら、何でも私に聞いて欲しい。そのために父親がいるのだからな」(3枚目の写真)。こうして、父は、男同士の親密な話しにみせかけ、聖書を “盾” にして自分の行為を正当化し、敵にまわったマルホからトーマスを切り離し、自分の配下に置こうとしようとする〔父を嫌っているトーマスが、こんな計略にひっかかるハズがない〕。これも原作には全くないシーン。

翌朝、トーマスは蛙の “ゲコゲコ” いう声で目が覚める。トーマスが机の上に乗って窓を開けて見下ろすと、家の前の道路は大きな蛙で溢れている(1枚目の写真)。これは、ナイル川を赤く染めて魚を全滅させた第一の災いに続く、『出エジプト記』における第二の災いだ。旧約聖書に書かれた内容は、「蛙の大群を発生させて国の端から端まで、蛙だらけにする。ナイル川は蛙であふれ、家の中まで跳び込んで来る。寝室もベッドも、家中蛙で足の踏み場もなくなる。かまどや粉をこねる鉢にまで入り込む。エジプトは蛙で埋め尽くされるだろう」というものなので、トーマスの空想は、さらに深刻化する。道路の蛙は、トーマスの家の玄関扉のドア・ポストから、群れをなして侵入する(2枚目の写真)。原作では、ドア・ポストから中には入らない。トーマスは、『家なき子』のレミなら、これをどう解決するだろう? 彼は不意に悟った。蛙たちと話をしなければならないのだ と覚悟を決める。彼は自分自身にこう答えた。「ああ、もちろん普通のオランダ語でいいんだ。レミだって動物たちにオランダ語で話しかけている。蛙だって、頭がおかしいわけじゃないんだから」。下に着くと、彼は玄関のドアに手を当てた。蛙たちの重みで、ドアが震え、悲鳴を上げているのが聞こえた。「こいつらは親切な蛙なんだ」と彼は思った。「だって、ママと僕を助けるために来てくれたんだから。善意でやってくれているんだ。でも、神様はファラオの心を頑なにしてしまわれた」。ここから映画。トーマスが階段を下りて見に行くと、ドア・ポストから入った蛙の大群は、階段を登って2~3階にあるトーマスの家に向かう。トーマスは、蛙の大群の中に入って行き、両手を上げて、「僕の意志に従って! 来てくれたことは感謝する。でも、ここには入っちゃダメなんだ。ママが許さない。ママの言葉は法律なんだ。だから、自分たちの池や溝に戻って」と頼む(3枚目の写真)。この言葉は、原作ではもう少し丁寧だ。「やあ、僕はトーマス。親愛なる蛙たち。来てくれてありがとう。でも、君たちは家の中に入っちゃいけないんだ。だってママがだめだって言うから。“ママの意志は絶対” なんだ。君たち、それ知ってる? 僕が学校を休んだときにラジオでやっている番組なんだけど。だから、もう君たちの溝や運河へ帰ってくれないか。これまでの協力には感謝するよ」。すると、空想の蛙は一瞬にして消える。トーマスは、ドア・ポストを開けて、外に向かって、「わざわざ来てくれて ありがとう!」と叫ぶ。

すると、階段を下りてきたマルホが、ドア・ポストの前にしゃがみ込んで叫んでいるトーマスを見て、「そこで何をしてたの?」と声をかける(1枚目の写真)。「蛙がいたんだ」。「蛙?」。「でも、ママは嫌がるから」。「ママが何を嫌がるの?」。トーマスは階段を上がりながら、「エジプトの災いだよ」と言う。水槽の赤化に続くトーマスの奇行を不安視したマルホは、自室に戻ったトーマスに続いて部屋に入ると、「あそこに、たくさん蛙がいたの?」と訊く〔原作は、「蛙は、何匹いたの?」〕。「何兆匹も」〔原作は、「何百万匹も」〕。それを聞いたマルホは、「しっかり正気を保つのよ、頭をおかしくさせちゃだめ」と心配する。トーマスは、そんなことには構わず、話題を大きく変え、「『名誉を汚す』ってどういう意味か知ってる?」と訊く(2枚目の写真)。「それは自分の『名誉』を失うことよ」。「でも、『名誉』って何?」。「『尊厳』のことよ」。トーマスは、さらに難しい言葉が出て来たので、一旦は 「『尊厳』って何?」と訊くが、姉は、真剣な顔から、笑顔になり、最後に笑い出す。トーマスは、隠しておいたアメスフォーツ夫人が父に送った 「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です」と書かれた紙を取り出して姉に見せる。手紙を読んだマルホは、「これ、パパに読ませなきゃ」と言うが(3枚目の写真、矢印は夫人が父に送った紙)、トーマスは 「怒ったらどうするの?」と一歩引く。しかし、マルホは 「読ませるべきよ」と、一歩も譲らない。

トーマスとマルホがが、食卓でラジオを聞いていると、1階の玄関ドアが開く音が聞こえたので、2人はテーブルクロスを今までで一番派手な柄のものに差し替える。父は、グッピーが入ったビニール袋を持って入って来ると 「ソードテールは売り切れだった」と言う。そして、トーマスを呼びつけ、グッピーの袋を渡し、水槽に入れさせる。水槽に放たれたグッピーを見て(1枚目の写真)、父は 「何て幸せそうなんだ」と、嬉しそうに言う(2枚目の写真)。父の、“グッピーに対する笑顔(トーマスに対して一度も見せたことのない笑顔)” を不快そうに見たトーマスは(3枚目の写真)、「だって、怖がらなくていいんだもん」と言う。それを耳に挟んだ父は、「トーマス、息子よ、人生は戦いなんだ。幸せなのは、弱虫と怠け者だけだ」と言う。トーマスは、「グッピーはなぜ幸せなの?」と訊く。「グッピーは働かなくていい。天与の糧〔熱帯魚用の餌〕が与えられるからな」と言う。それを聞いた、トーマスは、「もう行っていい?」と、父の話を遮ってマルホの方に行く。この場面は、水槽が父の所有物である映画だけのもの。原作では、この場面の代わりに、かなり前の節で、父がマルホに言った、「覚えておきなさい、マルホ。この世に本物の本はただ一冊、聖書だけだ」という言葉が、どうなったかについて面白い結末が書いてあるので、紹介しておこう。真っ赤な水槽から何日後か分からないが、母の鼻は赤く腫れ上がっていた。左の鼻の穴には脱脂綿が詰められていた の悲惨な記述のあと、マルホが学校で起きたことを話す。「国語の授業で追い出されたの」。「なんだと?!」と父が驚いて叫んだ。「一体何をやったんだ?」。「別に。デ・ライプ先生が、私のことを “知ったかぶり” だって言い、教室から出て行けって」。「だが、お前は一体何と言ったんだ?」。「読むべき本のリストにある “あんな紛(まが)い物の本なんか読みたくないって言ったの。聖書があれば十分だってね」。「いいか、よく聞くんだ、マルホ。お前は何も分かっとらん。お前が読まなければならない本には、人々の意見が書かれている。聖書に書かれているのは意見ではなく真理。なぜなら聖書は神の言葉だから。私が言いたかったのはそういうことだ。だからといって、先生に生意気な口をきくんじゃない!」。「パパから教わったことをそのまま言っただけよ」〔マルホの父に対する逆襲〕。ここから映画。夕食が始まり、いつものように、父が肉切り包丁で、肉をすっぱりと切っている。それを見たマルホは、「その包丁、すごくよく切れるわね、パパ」と言う(4枚目の写真、矢印)。〔原作では、父は、まず、「ああ。毎週研いでいるからな」と言ってから〕「年老いた牛の皮を剥ぐことだってできるぞ」と自慢する。「ザクッて、一気にね」。マルホが言った。彼女の目は不気味に輝いていた。「なまくらな包丁は大嫌いなんだ」。

その時、1階の玄関ドアの呼び鈴が鳴る。トーマスが開けに行き、「こんにちは、ピー叔母さん」と言うと、「なんて可愛いの」と言った後で、父〔義兄〕に対し、「何てことなの! あんたの弟が、私を殴ったのよ! なぜだか分かる?」と言うと。スボンを見せる。父は、トーマスとマルホを上の階に行かせようとするが、叔母は、「いいえ、お断りよ! 誰が知ろうと構わないわ」と義兄の命令を却下し、2人に、「あんたたちのベン叔父さんはね、ズボンをはいたからって理由でピー叔母さんを殴ったのよ。あいつ、正気じゃないわ!」と言う。いつも平気で母を叩いている父は、叔母が子供たちの前で非常に不味いことを言い始めたので、何とか止めさせようと、「ピー、座って」と言うが、そんな言葉に耳を貸すような叔母ではない。「あんたが一番上の兄なんだから、こんなことは許されないって、言ってやってよ。でないと、私、家の前に看板を持って立ってやるわ。『クロッパー氏は、妻がズボンをはいたという理由で暴力を振るいます』ってね」。それを聞いた父は、本性を現わす。「ピー、男には、妻や子を導き、教え諭す務めがある。もし、従わない場合には…」。「殴るの?」。「厳しく対処する」〔いつも殴っていることがバレると困るので、直接的表現を回避した〕「それは神がお定めになったことだ。神はまた、女はスカートを、男はズボンをはくものとお定めになった。もし、あんたが神の掟に頑なに背くのであれば、あんたの夫には権利がある。いや義務があるんだ〔原作:「いや、たとえ鉄拳をもってしても従わせるのが義務なのだ」〕!」。それを聞いた叔母は、「そうか、つまり、あんたを頼りにしても無駄ってことね。でもこれだけは言っておくわ。もし彼がまた私を殴ったら、私は彼と別れてやる。そして、二度と会わない。それに、これからはズボンしかはかないわ!」と宣言し、義兄にズボンを履いた足を上げて見せる(1枚目の写真、矢印)〔母より、よほど自立心があり、暴力に対する憎しみが強い〕。叔母は、ここで、父にとって非常に困ったことを母に訊く。「ところで、その鼻どうしたの? まさか、神の掟に背いたんじゃないわよね?」(2枚目の写真、矢印)。「引っ叩かれたの」とは言えないので、母は、「つまずいちゃった」と嘘を付く。母に対する父の暴力を許せないマルホは、「水槽よね。ねえ、パパ?」と、じっと父を見ながら、痛烈な批判を込めて言う。それを聞いた叔母は、義兄の暴力による傷だと知りつつ、マルホの批判に相乗りする形で、「そうね、水槽っていうのは、ぶつかるとひどい目にあうものね。私もよく水槽にぶつかるわ。特に、鼻からね」と言うと、義兄に向かって、「あんたって、弟と同じで臆病者ね」と貶すと、「さあ、そろそろ、信心ぶってるくせに暴力をふるう夫のもとへ帰らなきゃ。でも、目にもの見せてやるわ。つけ上がるなって!」と言い、最後に母の肩に手を置くと、じっと顔を見つめながら、「そう思うでしょ?」と、自立を促す。叔母は、そのまま出て行くと思わせ、義兄の前まで来ると、吸っていたタバコの火を、皿の肉の真ん中に何度も押し付けて消し(3枚目の写真、矢印)〔原作にも、ピー叔母さんは、父の皿の上でタバコを押し消した と書いてある〕、ドアをバタンと閉めて出て行く。原作にきわめて忠実なシーン。

食後の祈りが始まるので、トーマスは、急いでアメスフォーツ夫人の手紙を聖書に見えるように挟む(1枚目の写真、矢印)。聖書を食卓の上に移した父は、すぐに “挟んである紙” に気付く(2枚目の写真、矢印)。そして、「これは、誰が入れたんだ?」と訊き、返事がないので、全員をイスに座らせ、紙を開いて読み上げる。「夫が妻を殴るのは、自らの名誉を汚す行為です」(3枚目の写真、矢印)。原作では、彼は手紙をテーブルの上の聖書の脇に置き、平らに撫でつけた。「全く同感だ」と彼は言った。「だが、一言足りないな。こう書かれるべきだ。“夫が妻を理由なく殴るのは、自らの名誉を汚す行為です” とな」という追加の文がある。マルホは、小さなスプーンを手に持って垂直に立てると、スプーンのえじり〔棒の先端〕でテーブルをトントンと叩きながら歌うように口ずさみ始める〔原作では、「ティデルム、ティデルム、ティデルム、ダム、ダム」とマルホが口ずさんだ とある〕。父は、「マルホ、鼻歌をやめろ」と命じる。そして、「誰が、これを聖書に入れた?」と再度訊く。返事がないので、「誰かが私たちを分裂させ、神に敵対させようとしている。近頃は、そういう時代なんだ」と言う。この部分、原作ではもっと長い:「この手紙そのものは、さほど重要ではない。問題は、なぜこれが聖書の中にあったのか、そして誰がそこに置いたのかだ。どうやら、誰かが私たちを仲違いさせようとしているらしい。神のその定めから、私たちの家族を引き離そうと… これはまさに現代の風潮そのものだ」。そして、3度目に、「誰だ?」と訊く。今度も返事はない。原作:父はまず母を見、次にマルホを、そしてトーマスを見た。「そこで質問だ。誰がこの手紙を聖書に置いたんだ?」。彼はそれを親指と人差し指でつまみ、ひらひらと振った。まるで地球上のすべての命が絶滅してしまったかのように、静まり返った。墓地の死者たちが目を覚ますほどの静けさだった。彼らは耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。「誰もいないのか?」と父は尋ねた。彼はテーブルを指で叩いた。「このテーブルにいる誰かが嘘をついている。それが誰かは私には分からないが、神に隠し通せることなど何もない。神に助けを求めよう」。彼は聖書の上で両手を合わせ、目を閉じた。「全能の神よ、我らの乏しきを顧み、試練の中にあるこの家族を強めてください」。

祈り終わると、4度目の 「誰だ?」。マルホが 「私よ」と言うと、父は 「信じられん。これは お前の字じゃない」と言う。「道で拾ったのよ」。今度は母が 「私がやったの」と言うと、母がまた叩かれると心配したトーマスが、「違う、僕がやった」と白状する(1枚目の写真)。「嘘をつくな」。父は、母が犯人だと疑っている。そこで、トーマスは、「僕がやったんだ! 僕だよ! その手紙には、小さな穴が開いているよね。穴が! どうしてそうなったと思う? 僕が安全ピンで刺したんだ。これだよ」と言うと、シャツのポケットから安全ピンを取り出して父に見せる。父は、手紙とピンを合わせて見て、嘘ではないと納得する。父は、「お前は嘘をついていなかったな、トーマス。不当にお前を疑ってしまった。許せ」と、疑ったことを謝る偽善性を見せた上で、「誰かがお前をそそのかして、父に逆らわせようとしている。それは誰だ? ピー叔母さんか?」と訊く。トーマスは、「言わないよ」と拒否する。「トーマス、誰が書いたか言え」。「言わない」。しばらく、どうするか考えた父は、「木のスプーンを持って上へ行け」と命じる。いつもなら、従順に従うトーマスだが、「行かない」と拒否する(2枚目の写真)。「何だと?」。「行かない」。それを見ていた母は、「私の小さな英雄は、私の隣に座ってなさい」と、夫の暴力から息子を守ろうとする意志を初めてはっきりと示す(3枚目の写真)。そして、父に対しては「あなたは聖書を読んでいて」と、聖書を盾にして暴力で支配しようとする夫の偽善を強く批判する。原作では、そのあと、「ティデルム、ティデルム」とマルホが歌った。「なんていい気分なのかしら」。トーマスは、彼女の瞳に宿った冷ややかな光にぎょっとした。「貴様、私に逆らうな!」と父は言った。「ママ、もういいよ、行かせて」とトーマスは言った。「いいえ! あなたが罰を受ける理由なんてないわ」と母は言い、彼の手をしっかりと握りしめた。「ティデルム、ティデルム、この子に罪なんかない」とマルホが歌った… と書いてある。父は、いきなり立ち上がると、母を引っ叩こうと手を上げる。すると、それを見計らったように、マルホも立ち上がる(4枚目の写真、上の矢印は父の手、下の矢印はマルホの手)。

この映画で最も秀逸で衝撃的な場面。父が母を叩く前に、父の “すごくよく切れる” 肉切り包丁をつかんだマルホは、その包丁の切っ先を父に向ける(1枚目の写真)。原作では、ここで、「彼女は天使のようだった」と、トーマスは『すべてを書いた本』に書いた。「天界で最も危険な天使。燃える剣を持ったあの天使だ」という一文が入る。そして、「二度と手を出すな!」と強く命じる〔原作では、「手出しはさせない。もう、たくさんよ。我慢も限界だわ」〕。それに対し、ずっと父の支配下で “共依存に近い状態” にあった母は、「マルホ、その包丁を置きなさい!」と言うが、マルホは、母には 「ママもトーマスも、神を怖がる必要なんてないわ。だって2人は優しいもの」と言い、次いで父に向かって、「あんたは優しくない。私がやらない〔刺さない〕なんて思わないことね? 私はあんたに似ているの。私も優しくなんかないわ」(2枚目の写真)「あんたが何を信じていようが、知ったことじゃない! でも、二度と暴力は振るわせない!」と怒鳴るように言う(3枚目の写真)。ここで、ようやくマルホは、包丁を父の首から離す。そして、「あんたは、悪いことだと知ってたのに、それでも続けた。近所に気づかれさえしなければいい」〔原作では、さらに、「親戚に知られなければいい。仕事場の人にバレなければいい!」〕「そうでしょう?」と最後を〆る。面目が丸つぶれになった父は、「出て行く」と言い、すっといなくなる〔ショックは受けても、反省した様子はゼロ〕〔原作では、もっと反抗的:父は立ち上がり、怒り狂って向き直ると、ドアへと大股で歩きだした。彼は立ち止まり、充血した目で部屋の中を睨みつけた。「お前たちと同じ屋根の下にはいられん!」と彼は怒鳴った。「私はホテルに泊まる」。彼はドアを乱暴に開け放ち、廊下へと消えた。それから、階段をドカドカと駆け下りた。表のドアが、落雷のような音を立てて閉まった〕。父がいなくなると、母は 「なんてことを…あなたは何をしたの?」と、非難するような発言をする、①夫に引っ叩かれるのを救ってもらったのに、②その前には、ピー叔母から「そう思うでしょ?」と、自立を促されたのに、何と情けない母だろう。しかし、マルホが、「終わらせたのよ」と言い、泣き始め、泣きながら、「私が終止符を打ったのよ。それとも、このままあいつに殴られ続ける方が良かったの?」としゃくり上げると、母も ようやく目が覚め、マルホを抱き締めて 「本当にごめんなさい」と謝る(4枚目の写真)。マルホは。トーマスのお尻を叩く時の木のスプーンを2つに折って窓から捨てる。一方、父は、逃げ出しのではなく、その夜遅く、近所が寝静まってから、こっそり家に戻ってくる。心配した母が待っていてくれたのに、ありがとうとも言わず、「もう寝る」とだけ言って、勝手に寝てしまう。この男には、もう一段の強烈な教訓が必要だ。原作でも、「ホテルに泊まる」と言っておきながら、父は一時間ほど戻らなかった。それから、彼は帰宅した。彼は猫のように忍び足で階段を上がり、隣の小部屋に引きこもった。事務所の仕事があるのだと、彼は言った… と書かれている〔ホテル代がなかった?〕。

翌朝、トーマスは、アメスフォーツ夫人の家で楽しそうに話し合っている(1枚目の写真)。夫人はトーマスにヨーデルを歌わせ、「音楽は楽しめばいいの。森は森、海は海で、美しいように」と教え、トーマスを喜ばせる(2枚目の写真)。トーマスは、夫人が言った「海」を、自分の経験と照らし合わそうと、「僕たち、ザントフォーツに行ったことがあるよ」〔アムステルダムの約25km西にある海辺のリゾート、トーマスにとって父の暴力や宗教的な抑圧から、唯一逃れられた自由な場所〕「ザント〔砂〕… フォーツ〔浅瀬〕から名付けたの?」と夫人に訊くと、「言葉の意味なんか考えないで。楽しく幸せだった思い出が大切なの」と諭す。そして、さっそく、『すべてを祝う会』と書いた招待状を作る(3枚目の写真)〔下の黒い字は、「8月17日(金)午後7時」〕〔絵は、ザントフォーツの砂浜と打ち寄せる波〕。以上は、原作の第7章の中ほどに出て来る「蛙騒動の後の場面」〔ただし、招待状は存在しない〕。そして、これより重要なのが、原作の第9章の冒頭に書かれた、遥かに長い会話。映画では完全に無視されている。原作では、第1回目の『すべてを祝う会』は、アメスフォーツ夫人の家でやることになっていた。それが、ここで、いきなり変更になる。「あんたの家でするよ」と夫人は言った。トーマスはぎょっとし、不安そうに尋ねた。「でも、どうして?」。「そのほうが楽しいと思ったのさ。私と、あんたのお母さんと、ピー叔母さんとでね」。ママ? ピー叔母さん? 一体全体、何が起きてるの? トーマスは突然、少しも楽しくなくなった。自分の家は、友達を連れてくるような家じゃない。自分の家は、朗読会なんて開けるような家では断じてない。「それに、午後にはやらないよ。夜の7時に始めるんだ」。トーマスはもうシロップ水を飲む気がしなかった。彼はテーブルの上の本の間にコップを置いた。「お腹の中が不安でいっぱいになった」と、彼は『すべてを書いた本』に書いた。「まるでカバを飲み込んでしまったみたいだ」。「それで、いつ?」と彼は尋ねた。彼の声は自転車の車輪のように震えていた。「驚くよ、きっと」。アメスフォーツ夫人は言った。彼女は湯気の立つコーヒー越しに、いたずらっぽく彼を見た。「言っちゃっていいかい?」。トーマスは頷いた。「今夜だよ」。アメスフォーツ夫人は言った。トーマスは呆然として彼女を見つめた。「父が許すはずがない」と彼は思ったが、口には出さなかった。「心配しなくていいよ、トーマス。怖がることはない。彼、エジプトの災いを望んでいたんだろう? カエルでも、蚊でも、腺ペストでもない、私たちこそが最高の災いなんだ。私たち女と子供がね。どんなファラオだって太刀打ちできっこないよ」。恐怖がカエルのようにトーマスの喉に這い上がってきた。「目を閉じるのよ、トーマス。静かに息を吸って、両手を膝の上に置きなさい」。トーマスの耳がキーンと鳴り始め、少しすると、前にも聞いたことのある音楽が聞こえてきた。たくさんのバイオリンの音色だった。「何が見える?」。「言わない。だって、ふざけてると思われるから」。「そんなこと思わないよ。言ってみなさい」。「イエスが見えるんだ。でも、あの方どこか変なんだ。ちょっと待って。ああ、わかった。髭がなくなってる! でも、まだ何か…よく見てみる」。トーマスは額にしわを寄せた。「ああ、だめだ。これは言わないよ。絶対に言えない」。彼は首を振った。イエスが髪を下ろしたお母さんにそっくりだなんて、怖くて言えなかった。そんなの、誰も理解してくれないだろうから。「あの方は、いつも僕に話しかけてくるんだ」とトーマスは話した。「おや。それはいい気分なのかい、それとも嫌なのかい? もしそうなら、あの方にはただ、あっちへ行ってもらおうじゃないか」。「僕は嫌じゃないよ。あの方は一人ぼっちなんだ。他に話す相手が誰もいないんだと思う」。「まあ、かわいそうに。今、あの方はなんて言ってるんだい?」。「今夜、来るって言ってる」とトーマスは言った。「人数が多いほど楽しいじゃないか。トーマス? もう目を開けていいよ」。トーマスは彼女を見た。お腹の中のカバはいなくなり、喉にいたカエルも消えていた。「まだ怖いかい?」とアメスフォーツ夫人は尋ねた。「ううん」とトーマスは言った。

映画は8月17日の午後7時近くに変わる。父が食後の食卓で『出エジプト記』の第40章33-34節を読み上げていると〔なぜ、いきなり第40章に飛ぶのか? 原作では第11章の4-6節〕、父以外の3人がドアの方を向く(1枚目の写真、矢印は聖書)。母は、「ごめんなさい、あなた。急いで片付けないと」〔原作では、父に対してではなく、マルホに対して、「さあ、早く片付けて皿を洗わないと」〕と言って席を立ち、マルホも片付け始める。父が、「何事だ?」と驚いて訊くと、トーマスが皿をキッチンに運びながら、「お客さんが来るんだ」と答える。「どんな客なんだ?」。「ピー叔母さん」(2枚目の写真)。母は、夫に、「あなた、テーブルを脇にどけて、イスを並べてくださらない」と頼む。「ピー1人のためにか?」。「もっとたくさんの方が見えるの。あなたも着替えたら?」。「どうして今になって聞かされるんだ!」。マルホが、「ごめんね、パパ。忘れてたの」と言い、トーマスが、「パパも招待されてるよ」と言って、招待状の入った封筒を渡す。父が受け取って中を見ようとすると〔原作には、招待状は存在しない〕、ドアのベルが鳴る。そこで、父がドアを開けに行くと、最も嫌いなアメスフォーツ夫人が最初に入って来て、2番目がピー叔母(3枚目の写真)〔原作では、最初がピー叔母、その後ろにマグダ叔母と、ビー伯母、そして、エリシャ、アメスフォーツ夫人、4人のお婆さん〕。以下のシーンは映画だけ。夫人は、ムッとした顔の父に向かって 「トーマスが、私たちを “幸せな人々の会” に入れてくれたの」と言い、「あなたも招待されたんですか?」と疑わし気に訊く。「何の会ですって?」。すると、次から次へと入って来た女性の一人が、「すべて、そこに書いてありますよ、クロッパーさん」と言い、招待してくれたトーマスに感謝のキスをする。父は、ようやく封筒を開き、中の招待状を見る。居間では、邪魔な聖書をどけようとした夫人から、父が大切そうに聖書を受け取る。居間は、招待された女性たちで一杯になり、聖書を手にした父の存在は “異様” でしかない(4枚目の写真、矢印)。

トーマスの朗読会が始まる前の場面は、映画では非常に短い。マルホはレコードをかけ、イエスも踊り始め、エリスも笑顔になる(1枚目の写真)。父は、マルホに向かって、「少し静かにせんか… 近所に聞こえるぞ」と注意するが(2枚目の写真。矢印はレコード)、マルホは、「みんな、ここにいるわ」と、無視。その際の父の顔を見たイエスは、トーマスに、「恐怖がファラオを襲った」と、父の心情をファラオに例える(3枚目の写真)〔イエスはトーマスの空想なので、トーマスがそう思った〕。しかし、原作では、無意味でしかなかった映画の “エイシャの家でのTV場面” の代りに、エリシャの重要な登場場面が設けられている: 再び階段でドタバタと音がした。ブン、ギギッ、ブン、ギギッ〔義足の音〕。トーマスの耳にはそれが音楽のように聞こえた。彼はトイレのドアに背中を押しつけた。エリシャだった。暗い廊下で、彼女は彼に気づかなかった。彼女はそのまま部屋へと向かった。「やあ、エリシャ!」とマルホが叫ぶのが聞こえた。「トーマスはどこ?」とエリシャが尋ねた。「彼の隣に座りたいの。だって、トーマスは私のボーイフレンド〔vriendje〕なんだもん」。オランダ中で、そして世界の至る所で、熱帯の奥深くまで、すべての蕾がはじけ、すべての花が開いた。ブン、ギギッ、ブン、ギギッ。「あら、そこにいたのね、トーマス!」とエリシャが言った。「私から隠れてるの?」。「ううん、そんなことないよ」とトーマスは言った。「こっちへ来て」と彼女は言った。彼女は手を差し出した。それは5本の指がちゃんとある動く方の手だった。2人は手をつないで部屋の中へ入った。「ちょっと見てみるわね」とエリシャが言った。「みんなが私の足につまずかないような場所に座らなきゃ」。彼女は辺りを見渡した。「あそこの窓際ね」と彼女は言った。2人は座った。彼女の革の脚が突き出ていたけれど構わなかった。通り道の邪魔にはなってないからだ。「それで?」と彼女は尋ねた。「私、どう見える?」。「きれいだよ」とトーマスは言った。彼女は白い襟がついた、空色のドレスを着ていた。「君のパパ、バイオリンを弾いたりするの?」と彼は尋ねた。エリシャは驚いて彼を見た。「ええ」と彼女は言った。「どうしてそれ知っているの?」。トーマスは肩をすくめた。「ただ、分かるんだ。それに、君のママはとてもきれいに歌えるはずだよ」。エリシャはすっかり圧倒されてしまった。彼女は彼の手を離し、肩に腕を回した。「あなたは、とっても特別な男の子ね。分かってるの?」と彼女は尋ねた。「少しはね」とトーマスは照れくさそうに言った。「僕は突然気付いた、エリシャは知ってたんだ」と、トーマスは『すべてを書いた本』に書いた。「彼女は知っていたし、僕も分かっていた。僕がどういう人間なのかを」。この最高のシーンを無視するなんて、何て監督なんだろう!

そして、いよいよ、この会のメインイベントの、トーマスによる詩の朗読が始まる(1枚目の写真、矢印)。「『すべてを書いた本』を書くのはたやすい。けど、それを読み返すのは辛い。僕は机に向かって静かに座り、書いては、窓の外を眺める。紙は言葉で溢れ、詩ができあがった。幸せであることは、誰にとってもいいことだ。僕も 楽しくて面白いことに、すっかり慣れてきた… ハンプティ・ダンプティの悲運。みんな踊ってる。タンプティ・ダム、タンプティ・ダム。たくさんのタンプティ・ダム、幸せな僕」。その詩を一番気に入ったのはマルホ(2枚目の写真)。朗読が終わると、感激してトーマスの額にキスする(3枚目の写真)。原作でトーマスが朗読するのは、アニー・M・G・シュミット〔Annie M. G. Schmidt〕の詩。「ファン・ズーテン先生は土曜日になると水槽で足を洗う。水遊びをしながら、フム・ティーデレム・フム・ティーデレムの歌を口ずさむ! 体を洗うための桶を持ってないの? 浴室も洗面器もないの? もちろん全部持ってるよ。じゃあ、どうして水槽なんかに浸かっていたの、どうして? 一瞬たりとも魚から目を離せないから! ファン・ズーテン先生は魚が大好きだから。毎週土曜日は『甘い水の日』なんだ。それがどれほど素敵なのか、知ったら驚くよ! 間違ってるかもしれないけど、あの魚たちって、ちょっとおかしくなったりしないかな? そりゃそうよ、ファン・ズーテン先生がいつあんな風に水槽の中にいるんだから! 土曜日に水槽でもし会ったら、よろしく伝えてね。お風呂でも、トイレでも、フム・ティーデレム・フム・ティーデレムを歌ってるから」。トーマスの「幸せになりたい」という気持ちが、「水槽と魚」を主題とした楽しい詩を選んだのかも。

イエスは、円満な結果をみて、「また会おう、トーマス。君は、私の一番の友だ」と、別れの言葉を言う。トーマスは、「天使たちに、よろしくって言ってね」と頼む(1枚目の写真)。イエスは、「もちろんだよ」と言うと、天に向かって飛んで行く。原作では、会の最中ではなく、トーマスがベッドに入ってからの会話。2人の話し合いの最後に、“映画の中頃で トーマスがエリシャにキスされた後の会話” が、実はここに入る。もう一度繰り返そう。トーマス:「エリシャは僕を待っていてくれると思いますか?」。イエス:「そう思うよ」。「彼女が革の義足を取り外すところを見るのは、怖いでしょうか?」。「君はもっとひどい修羅場をくぐり抜けてきたろ」。そして、その時には言わなかった決定的なトーマスの台詞。「実は 僕、彼女と結婚するつもりなんです」。これに対し、イエスは彼の手を頭の上に置き、「私の祝福を授けよう」と言う。それからトーマスは眠りに落ち、イエスは天へと昇って行く。ここからは、映画と原作は同一。上界に戻ったイエスに、数人の天使が「トーマスはどうでした?」と尋ねる(2枚目の写真)。「彼なら大丈夫だ」。「すぐに彼を連れて来るのですか?」「私は、彼のためにトランペットを吹きたいのです」。イエスは、微笑みながら、「君たちにはトーマスを射止めるチャンスなんて、万に一つもないよ」と言う。「どうしてですか?」。「君たちの中には、歩くたびにギシギシと鳴る、革でできた脚を持っている者なんて誰もいないからね」(3枚目の写真)。イエスは、あくまでトーマスの空想上の存在なので、これも、朗読会で、「ボーイフレンド」と言われたトーマスが描いた夢の世界。この場面は、映画と原作で同じでも、映画では、トーマスが一度天界を訪れているので違和感はない。しかし、原作ではそのような場面がないので、どうして天使たちにそんなに人気があるのか分かり辛い〔映画の方が上手い〕。

映画のラスト〔原作のラストは、天界のシーン〕。トーマスの家でのパーティーは、トーマスとエリシャが踊るシーンで最高潮に達する(1枚目の写真)。パーティーが盛り上がる中、父は、耐えきれずに家から外に出てしまう(2枚目の写真)。パーティーが終わり、自室に戻ったトーマスは、今まで白紙だった本扉に、『すべてを書いた本』と題名を書く(3枚目の写真)〔“鶏が先か卵が先か” なので、どちらでも同じ〕。
