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I Am... Gabriel 私はガブリエル

アメリカ映画 (2012)

ギャビン・キャセールグノ(Gavin Casalegno)主演の宗教映画。信心深いことが如何に大切かを映画化したもので、言葉は悪いがキリスト教のPR映画のような感触を受ける。劇場公開されたものではなく、DVD販売のみの作品。全体に低予算のイメージは拭えない。

舞台はテキサス州プロミス。ジョー・マーフィーの妻エレンが死産し、子供の産めない体となる。それから10年、町全体が呪われ(干魃、疫病、倒産、不和…)、人々は望みを失い人口も減少していた。そこに突如マット(お祈り用の座布団)を持った少年ゲイブが現れる。保安官はただの家出少年と思い込むが、旱魃の町に雨が降り、盲目の少女が見えるようになるなどの奇跡が続く。エレンを中心に町の女性たちでマットを作る動きが進み、町の情報屋の女性はゲイブを格好の新聞ネタにし、保安官はますます疑い深くなっていく。そして、町の人に慕われていた医者が末期癌で死んだ時、祈りの集会でゲイブと保安官は衝突し、真実が明かされる。

ギャビン・キャセールグノは、役柄のせいだと思うが、表情がほとんど変わらない。大天使ガブリエルは、宗教画の中で女性として描かれることはあっても少年として描かれた例は見たことがなく、役作りには苦労したと思う。あまり上出来とは思わないが。


あらすじ

プロミスの町の中心から遥か離れた道路脇の境界標の前に立つ老人と少年。そこに、町へ帰る途中のマーフィー夫妻の車が近付いて来る。「彼らだ」と老人。「彼らは、すんなり受け入れるかな?」。「神は、マットを持てと。名案です。彼らは 思うでしょう、唯の子供だと」と少年。名前はゲイブ。ガブリエルの愛称だ。全身白ずくめの服に、茶色のマットを筒状に丸めて背にかけている。車が近付くと、ゲイブは道の真ん中に出て行く。話しに夢中で気付くのが遅れ、急ブレーキをかけるジョー。轢きそうになって詫びる夫妻(道路の真ん中にいる方が悪いと思うのだが…)。ゲイブは町まで乗せていってもらうことになった。「ご両親に連絡しようか?」。「いません」。「じゃあ、誰に連絡すれば?」。「必要ありません。迷子じゃない。ゲイブです」。このあたり、どう訳すべきか迷った。大天使が子供のように話すとは思えないし、実際、ゲイブの口の聞き方もそっけない。そこで、大人のように話す子供、という設定にした。
  
  

一応、轢きそうになったので、町で一人だけのドックに診せに行く。そこに連絡を受けた保安官ブロディも現れる。「少し質問しても?」。「どうぞ」。「苗字は?」。「ありません」。「苗字がない?」。「ええ」。「思い出せないとか?」。「ただ、ないのです」。当然、保安官は隠していると思い込む。保安官の言葉を遮り、ゲイブが話し出す。「保安官、この町は壊れている、助けが必要です」「あなたの苦悩も心痛も知っています」。そして、ドックには、「あなたは素晴らしい人です。あなたのせいではない(実は、死期が近い)。神には別の計画が」。最後に夫妻には、「あなた方の喪失は、空しさと怒りと悲しみを与えました。救済に来たのです。そう させて下さい」。子供の口からは絶対に出ない言葉だ。とりあえず、ゲイブは夫妻の家に泊まることに。
  

「真夏のテキサスに ようこそ」と家に招き入れられたゲイブ。エレンが「着る物は、他にないの?」と訊くと、「いいえ、これだけです」。寝室に案内される(アメリカの割には狭い)。ゲイブが風呂に入っている間、夫妻は、なぜ自分たちの過去の不幸のことを知っているのかを話題にするが、エレンは「あの子を信じるわ」と、より積極的だ。エレンが洗濯して乾いた服を部屋に持っていくと、ゲイブがマットの上に座っている。見たことのない光景だ。「マットって、そうやって使うの?」。「ええ、お祈りに」。「なぜ、マットを?」。「神と話すことを忘れないように」。そして、ただ漫然と教会に行くのではなく、ちゃんと神と対話してみなさいと、マットの上に座るよう勧める。「神は、あなたを待っておられる。ただ、話しなさい。今、話してるように」。実際にやってみて、神と話せたと感じたエレンは感激する。そして、ゲイブの進言に従い、町の人のためのマットを婦人会で作ることに決める。
  
  

その日の夜、町の集会に参加するゲイブと夫妻。牧師が祈りを奉げた後、食事会や演奏もある町の一大行事だ。農夫が町長と話している。「わしは老人だ。いい時も悪い時も見てきた。だがな、今、うちの穀物に水がやれんかったら、わしは終わりだ」。そのくらい、旱魃はひどい。ジョーの隣に座っていたゲイブが、突然「今だ」と言う。「ジョーさん、水をもらっても?」。そしてジョーが飲みかけのミネラル・ウォーを床に注ぐと、雷鳴が轟き、土砂降りの雨が。
  
  

さらに、演奏後に麻薬を吸いすぎた牧師の生意気な娘が、過剰摂取で心拍停止状態に。マットに乗って肩に手を置き、天に祈るゲイブ。こちらも無事に生還した。町の情報屋の女性が、エレンに「ゲイブって何者?」と訊く。「唯の子供よ」。「唯の子供なんかじゃない」。雨に打たれながら、外のブランコで考え込むゲイブの寄っていって話すジョー。「当惑してる」。「当惑? なぜ?」。「だって、今夜は狂ってた」。「狂った? なぜ、そんな言葉を?」。「言い方が悪かった。ゲイブ、こんなことはあり得ない」。ジョーの疑問に対し、ゲイブは、「今朝、あなた方に話したように、ここに来たのには、訳が」「あなた方のためでも、あるのです」と添える。この2番目の言葉には深い意味がある。
  
  

情報屋からその夜の出来事を聞いた保安官。ますますゲイブを怪しがる。一方、情報屋は、これは新聞記事になると思い、思い切ってあこがれの地元新聞のスター記者に連絡を入れる。保安官は、目下の緊急課題である“飲酒癖の悪い亭主”の聴取に行く途中、歩いているゲイブを見て車を停める。「昨夜は、波瀾万丈だったとか」と言って、聴いたことを話す。「君は その中心にいたな」。「居られて、幸せでした」とゲイブ。「神のお陰です」。「違うな」。「なぜです?」。「神は、何もしちゃいない。神など いない」。それに対して、ゲイブは「奥さんを亡くしたから、そんなことを?」と言う。「何で、知ってるんだ!?」と息巻く保安官。「何者かは知らんが見つけ出してやる」。ゲイブは、そのまま、ドックの家に向かう。「あなたの気分は?」。「死にかけてるよ」。「知っています」。ドックを慈しむように眺めるゲイブ。「いつ頃 分かるんだね? 君が何者なのか」とドック。「それは重要ではありません」「本当の問題は、この町の人がいつ気付くかです」「本当に神がおられると」とゲイブ。
  
  

一方、翌日すぐに退院できた牧師の娘は、両親と一緒に教会に向かう。そして、朝の礼拝に集まった町の人に話そうとする父に、替わってもらい、謝罪の言葉を述べた後、「私が、今日ここに立てるのは奇跡です。それに どんな意味があるのか分かりませんが、神の御業だと分かっています」と結ぶ。それを聴いていたゲイブは天を仰ぎ見て、「あなたが待ち望まれた言葉です」と言って去る
  
  

町の婦人会で、エレンは“お祈りのマット”を作ろうと提案し、ゲイブに現物を披露してもらう。そして、神は声を聴きたがっていると話す。さらに、「プロミスの町は辛い時期を経てきました。神の御許で話りかけましょう。もしかすると…」。ゲイブはすかさず、「もしか、ではありません」「神はこの町を再興されます」と断言する。「町の全員にマットが必要です」とも。全員で熱心にマットを作り始める人たち。
  

最大の奇跡はドックの家で起きた。目が不自由で、痛みもひどくなった娘が診察台に横になり、母とドックが話している時、誰かが娘の目を手を塞ぎ、「光を」と囁きいた。娘は体を起こすと、「ママ」。「なあに?」。「とっても きれい」。目が見えるようになったのだ。「ルーシー、一体何が?」。「彼が『光を』と。そしたら見えたの」。
  
  

その噂はたちどころに広まり、伝え聴いた保安官は、直ちに夫妻の家に直行する。そして、対応したジョーに向かって、「彼は何者だ、ジョー?」「いいか、奴は、降って湧いてきて、町中をたぶらかしてる」。そして、ルーシーの目だ見えるようになったことも話す。「ブロディ、奇跡だよ」。「いや、違う。奴は、インチキ野郎だ」。この脚本は絶対に不自然だ。雨が降ったのは偶然で、牧師の娘が生き返ったのは死んでなかったからかもしれないが、目がいきなり見えることはあり得ない。それを“インチキ野郎”としか見ない保安官は、わざとゲイブと対峙するよう役付けられている。
  

翌日、“飲酒癖の悪い亭主”を逮捕しようと、猛スピードで追跡する保安官。その車の前に立ちふさがるように足を踏み出すゲイブ。車は直前で急停止。「そこを どけ!」「奴は酒酔いで誰かを轢くかも!」。「それはない」「あなたに追われて事故を起こすかもしれないが」(言えてる)。「ヴードゥ教のたわ言は、うんざりだ」。一方、“亭主”の方は、車から逃げ出した時、別の車に撥ねられ重傷。「たのむ、助けてくれ」。ゲイブが近寄り、「あなたはケガをしています。ひどく」「でも、神は愛しておられます」と言って損傷した脊椎をなぞると、光が輝き、治癒してしまう。それを目の前で目撃したのが、情報屋と、取材に来ていた花形記者だった。
  
  

一方、ゲイブは死期の迫ったドックの家に向かう。本当は死んで欲しくないので、神に再考を願うが、聞き遂げられず、あきらめて家に入る。「もう命は尽きた。だが、私に価値はない」と言うドックに対し、「あなたは、善き人だ。福音を信じる者は、神の血がそれを保証する」とゲイブは言い、涙目で「私が、天に誘(いざな)います」と。恍惚に輝くドックの顔。
  
  

夫妻の元に戻ったゲイブを、情報屋と花形記者が訪れる。「君を、第一面で取り上げようと思う」と口火を切る記者。「私は記事になどなりません」とゲイブ。「なあ、ゲイブ、私は20年 記者をやってきた。ネタは分かるんだ」。「他人を話題にするのは、たやすいことです。自分の話題はどうですか?」。「何?」と記者。「癌の転移を宣告された時、あなたは自らの殻に閉じ籠った。恐怖があなたを麻痺させた」。「癌だと、なぜ知ってる?」。「膵臓の癌は痛みません。でも悪化します。あなたは、それを知っている。毎日、それが今日ではないかと怖れている」。さらに、「これは、あなたへの賜物です。神が、望まれたのです。あなたに最上の贈り物を差し上げようと。受け取りなさい。それが、あなたの運命です」。この場面、大天使らしい厳しさが感じられる。
  
  

ドックを偲ぶ教会での夜の集い。その会場に、保安官がずかずかと入ってくると、「全部 お前の仕業だ!」と言ってゲイブの腕をつかんで立たせる。そして、ゲイブに向かい、「ドックが死んだ時、そこに居たな?」。「はい」。「なぜ死んだ?」。「召される時が来たから」。「召される時だと? どういう意味だ?」「このガキが来てから、変なことばかり起きてる」「奴は、いつも その中心にいる」。ゲイブはこの告発に対し、ドックを悼む人々の心、保安官の傷付いた魂について触れた後、「なぜこうなったのか、不思議に思わないのですか? なぜ、荒廃の年月が流れたのか? そして、この復活。変だと思いませんか? 突然 少年が現われた。マットだけを持って」。「一体何なんだ?」と保安官。「招聘です。全員の」。「何者なんだ?」と訊く保安官に対し、「私は… ガブリエル」と本当の名を告げ、純白の翼を広げる大天使。確かにカッコいい。ひれ伏し、あるいは、恍惚と仰ぎ見る人々。事後談として、子供の産めない体になったエレンに赤ちゃんが生まれるシーンで映画は終わる。最後に、私はキリスト教徒ではないので、不適切な表現があったら、お詫びしたい。
  
  

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